虫送り '13


   虫送り '13(舞鶴市与保呂)


      「虫送り」はかつてはどこの農村でも催されていたきわめてポピュラーな民俗行事だったという、
しかし現在はほとんどの村で、すでに消滅していて目にすることができない。
稲の害虫も悪霊の祟りのせいと考えた古人たちは、
火で太鼓や鉦の音ではやし村外へ海へと悪霊払いをしたという。
旧6月晦日が「大祓」(夏越しの祓)、絢爛な御霊会や祇園会など都市の夏祭りもみなこの時期で、
もとをたどればみな同じ、農村のこの時期の「虫送り」に始まったのかも知れない。
この時期は、稲の穂が出て孕む直前で、稲のみのりの左右される危機の時にあたっている。
ものみな腐りやすくなり、体力もおちて、稲ばかりでなく人にも疫病が蔓延しやすい危機の時期でもある。
犠牲になるのはまず小さい子たち、そして体力のない老人たち。
原発と同じである、犠牲はそうした所へしわ寄せされる、オマエらは殺しても死なないだろうが、
犠牲は弱いところに出る。安易に再稼働などとは言わないでもらいたい。
この時期にこそ罪や穢れ禍いをもたらす悪霊は村から送らねばならなかった。

しかし「虫送り」は、何とも素朴でアイソもクソもない、ただ燃える松明を持ってゾロゾロと歩いているだけ、
どこが面白いかツマラネエー、と言われればそうだけれども、
これが、いわば農村の「祇園祭」
はるか昔の元初の祇園祭の姿だったのかも知れない。
農村こそ祭の発祥地か、
どこかの国の大金融資本や投機マネーのいいなりになって、精細な農業をつぶすと、日本は草の根から完全に滅びるだろう。






 万物のワザワイのもと、ことごとく彼にあると考えられた荒ぶる神の名はスサノヲ、
青山を枯山に枯らし、河海はことごとく乾し、
邪神の騒ぐ声は夏の蠅のように世界に満ち、あらゆるわざわいが一斉に発生したと『古事記』は伝える。
すさまじい神でワザワイは原発超クラス、古人たちにも何も彼に対抗する手段はなかった。
困った人々はこの神の本来のすみかである、海原へ根の国へ帰っていただこうとした。
行列が向かっているのは、与保呂川で、そこから海へ送るのである。
今では子供の遊びごとのようなことかも知れない、
古くは家族全員の命をもゆるがしかねない大事なハンパごとではない神事であったと思われる。

ただゾロゾロ歩くだけでなく、この行事に込められた遠い祖先の苦労と願いもしのびながら歩こう。



 

 

 

 ↑ここでも述べられているが、与保呂の一つ北の谷になる多門院では 60年ぶりに、虫送りが復活したという。6日夜のことである。「京都新聞」によれば、
「京都府舞鶴市多門院地区で6日夜、約60年ぶりに農村行事「稲の虫送り」が行われる。地域の子どもと大人約30人が長さ約3メートルの大たいまつを手に練り歩く予定で、地元住民は「若い世代に伝統を伝え、村おこしにつなげたい」と復活の炎に願いを託す。
 虫送りは夏の夜にたいまつを掲げて、田のあぜ道を歩き、害虫を払う行事。山あいに水田が広がる同地区でも古くから行われていたが、1953年の台風13号被害で中断した。しかし「伝統を伝えるなら今しかない」の声が高まり、今年、地域の老人会を中心にたいまつ28本を準備した。
 虫送りは午後7時、同地区東部の黒部バス停付近を出発。地域の4集落が火を受け渡し「稲の虫おーくろや。ひょうたんたたいておーくろや」と歌いながら、地区西端まで約2キロを歩く。住民でつくる「多門院の将来を考える会」代表の新谷一幸さん(66)は「今や50代の大人でも経験がない。復活が、子どもや大人が地域に興味を持つきっかけになれば」と話していた。」

「舞鶴市民新聞」は、
「「い〜ねのむ〜し、お〜くろや」  多門院虫送り 約60年ぶりに
 多門院地区で約60年ぶりに虫送りの伝統行事が復活した。6日夜、子供から大人たちまでの約50人が、炎を上げる大たいまつを手に地域を歩いた。
 虫送りは夏の時期に稲につく害虫を、火のついたたいまつに集めて追い払う行事。各地の農村で行なわれていたが、多門院では1953年の台風13号で田んぼが被害に遭って中断した。
 この伝統行事を村おこしに活かそうと、地区の老人会である多門院長生会が主催した。割り竹に稲藁などを詰めた長さ3bのたいまつをかざし、黒部方面から西へ向かって、「い〜ねのむ〜し、お〜くろや。ひょうたんたたいて、お〜きの島まで、お〜くろや」と掛け声を上げながら歩いた。」


 


 

 

 たいへんに素朴で飾りも楽しみも特には工夫されていない。どうせなら精一杯楽しんでやろうという遊び心が加わってくると、絢爛華麗な祇園祭に発展していくかも知れない。しかしそこにはきびしい規制が加えられていた。江戸期の話だが、
『舞鶴市史』に、
娯楽 村々の娯楽について、幕藩は厳しい規制を行った。その理由は、特に、芝居同様に人を集めて演じる遊芸・歌舞伎・浄瑠璃踊り類が、百姓を遊興にふけらせて惰弱にしてしまい、そのため耕作がおろそかとなって荒地が多くでき困窮、その果ては一家離散にいたるというのである。寛政十一年に幕府はこれらを禁止したが、さらに、近来は在々で神事祭礼の節や虫送り・風祭りなどと名付けて、見物人を集め芝居見世物同様の催しをしている由で不埒である。今後、芸人を決して村へ立ち入らせてはならないと、天保十一年十月、再度禁令を全国に布達している。これは同年十二月に当藩の各村でも順達されている(「御用触附帳」安久家文書)。
当藩における娯楽の規制例を拾っていくと、安永七年十二月、第五代藩主惟成の寺社奉行加役中は相撲・富興業を禁止(「御用触附帳」)、天保二年八月、右記幕府禁令の芝居同様の催しを禁止、ただし、神楽・笹踊り・振り物は許可(「御用書附留帳」)、天保十年九月、池内谷での狂言様催しの風聞に対し警告(「御用附留日記」)、翌十一年三月、狂言様の芸を催した今田村百姓らを呼び出し取調べ(「御用触附日記」)、などがある。…
盆踊りは、天保八年・九年が飢饉さなかと直後ということで、藩庁は両年については停止を仰せつけた(「御用日記帳」、「御用触附帳」)。そのほかの年では、例えば、文政十二年七月に思い付きの浴衣や頭巾(「御用触附帳」)、天保二年七月に浴衣・絹羽織・足袋(「御用書附留書」)、のそれぞれ着用を差し止める程度の規制であったようである。なお、天保四年七月、虫送りに大太鼓を使用することを禁止している(「御用日記帳」)。…

与保呂の虫送りに用いられる太鼓はかわいらしいもので、舁ぐのに楽なようにとの配慮からか、それにしも囃子ものの数が少ないし飾りくらいは派手につけろよと思っていたが、天保の規制のままなのかも…、見物人が集まると芸屋台も出て来る、権力の勝手な規制を押し返す力がないと、ショボイままになってしまう。


 与保呂は3集落があって、この「虫送り」を行っている、下側に常と木下の集落があり、その行列も集まってくる。

 


 子供たちを集めたければ、観光客を集めたければ、まずは喰い物である。一度食べればクセになるほどの何か安い名物を考えてみれば…。それから何か記念物がもらえる、ここしかないという安物かタダのオンリー物。
害虫と人間は呼ぶが、虫から見れば人間は害獣だろう、母なる地球自然環境から見ればどちらがまことの害虫か、そうしたものがいいかも…
もうちいと田吾作らしいかっこうをするとか、送り出す悪霊の飾り物(依代)、ねぶたのようなハリボテもの、一回限りで壊され焼かれ流される、害虫キングをつくることではなかろうか。古い伝統を引き継ぐことは、そのまま引き継ぐだけではマンネリでそのうちに消えてしまう、新たな伝統を創意工夫し作りだしていく努力のなかでこそなされるものと思われる。
祭は平和な社会ではじめて成り立つもので、戦争の町には祭はない。東舞鶴など市民すべてが集まるような大きな祭がないなどと嘆いているが、軍港城下町としての成り立ち上からは当たり前で、戦争景気を当て込んで集まってきた人々の軍事基地の町にそうしたものがあるはずはない。それは悲しき宿命で、親の因果が子にたたったものかも知れない。「ちゃったまつり」とかはそうしてできたとかいうが、商店街がムリしてつくっても、平和に向けた市民としてのきびしい姿勢を当初から問題にされたもので、祭開催者としての資格がまず問われていた、人殺し賛美者の祭などはなく、あったとしてもやがてはじり貧は避けようもなかろうというわけである。
残されているとすれば、軍港になる前からあった周辺の村々で、そこに残されている、これらを大きく復活することであろうか。

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   参考

 「いねのむし おくろよ」の稲の虫とは。
稲の病害虫は、いずれも30種以上もあるとか、手強い相手で、不治の病もある。

稲の害虫は、どのようなものがいますか。また、害虫の天敵はどのようなものがいますか
稲の病気
昔の人たちはどうやって、稲を病気や害虫から守っていたのか






詳しくはプロの農家の人に聞いて下さい。Web上には、だいたい次のようにあります。

稲の病気
カビ類
イモチ病。イネの病害虫の中でもっとも怖い病気。病原菌はカビの一種で、葉、茎、穂と稲のどの部分にでも発生する。
モンガレ病。イネの茎や葉に発生するカビの一種。
ほかには、葉が白くなるシラハガレ病、葉に斑点ができるゴマハガレ病、籾につくイナコウジ病などカビが原因の病気が多くある。

カビ原因のウイルスによるもの
シマハガレ病、萎縮病などウイルス病。人間でもエイズウイルスの特効薬がないように、イネもウイルス病にかかると治らない。ウイルスはウンカやヨコバイといった害虫がイネの汁を吸うときうつる。
そのほかに、線虫やマイコプラズマ様微生物、細菌(バクテリア)等が原因になる。

稲の害虫
1 茎を害する虫
  ツマグロヨコバイ、セジロウンカ、トビイロウンカ等はセミのような虫で稲の茎から汁を吸う。とても繁殖力が強い虫。ニカメイチュウ、サンカメイチュウはガの仲間で、幼虫が茎の中に入って茎を害す。
2 葉を害する虫
  イネミズゾウムシ、イネゾウムシはコクゾウムシの仲間で、イネの葉をかじる。      イネドロオイムシは自分の糞を背中に負っているムシで泥を負っているように見える。
  コブノメイガ、タテハマキ、イネツトムシ、イネアオムシはガの仲間で幼虫がイネの葉を食べる。
  イネカラバエ、イネハモグリバエはハエの仲間で幼虫がイネの葉をかじる。
3 根を害する虫   イネミズゾウムシの幼虫はイネの根をかじる。
4 穂、籾を食べる虫   カメムシには多くの種類がありますが、イネの汁を吸って、米粒に黒い斑点ができる。
  イネシンガレセンチュウ、イネアザミウマも米に傷をつけて黒点米になる。その他に、イノシシ、スズメ、ヌートリアなどの動物もイネを害す。


 各地の「虫送り」の記録

『宮津市史』
イネムシオクリ
  七月の土用の頃に行われる。稲の害虫被害を防ぐためのもので、日置の高石さんや、神社に参って、笹やクモの葉をもらってきて、田の虫のつきそうな場所に差した(狩場・田井)。
 また、鉦や太鼓と、先に野菜を付けた竹を持って、「ヌカムシ送った」と唱えながら村中を歩き、最後に「フネガタヘヌカムシヲオクッタ」と唱え、竹をよその村の山へ放った(奥波見)。
 日置浜では、明治二十年頃までは、藁で船と人形を三体作り、「送った、送った、ヌカムシ送った」と囃しながら太鼓をたたいて、田の中をまわった後、波見崎にある金岩から海に流した(日)。


『大宮町誌』
虫送り
 七月の土用にはいって三日目(土用三郎)か五日目(土用五郎)の螟虫(めいちゅう)の最も発生する時期の夕方には、稲の虫送りがあり子供たちが松明をともして行列をつくり、鉦・太鼓・拍子木・笛などをたたいたり吹いたりして、麦藁で作った小さな馬形に、南天の葉を耳に、とうもろこしの毛を尾にしたて、細い青竹にさして「送ったァ送ったぬか虫送った」と連呼しながら稲田を縦横にぬって、上から下へ行き、その馬形を村の端で川に投げすてた。常吉では麦藁で馬をつくり、弁当を負わして川へ流した。この行事は大正の末まで行われたという。


『弥栄町史』
ぬか虫送り
旧植後三十日のころ、稲に虫のつかぬようにと行った行事で、郡落によっていろいろ催されたようである。一般には部落の人々が松明をともし、夕方たんぼ道を水上みから水下へ「おくった、おくった、ぬか虫おくった」と、大声で噺し立てながら列をつくって廻った。船木、堤部落では麦桿で馬の形を造り竹の先にさし、鉦、太鼓、ほら貝等打ちならしながら廻り、最後は船木は馬をお宮に奉納し、堤は竹野川堤防で焼き捨てた。また小田では、子どもの行事として鉦、太鼓でにぎやかに廻った。この行事も大正末期から昭和の始めごろでなくなった。



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