Town Review


浮島丸殉難64周年追悼集会
'09・8・24 殉難の碑公園


 



↓事故のあった海へ全員で献花。
浮島丸追悼集会09.08.24:献花

浮島丸殉難64周年追悼集会



 2009年(平成21年)の8月24日は、浮島丸事件から64年目になる。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」に於いて今年も集会を開いた。
事件の解明に はほど遠い現状であり、日本海の、舞鶴湾の、平和も脅かされる状況のなかで、恐らくは数千名にのぼったであろう、あの日の無念の犠牲者の冥福を祈り、平和の確立に向けて集会が開かれた。
佐波賀の海は阿鼻叫喚の地 獄の海であったとは信じられない静かな舞鶴湾の一画である。





 64年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、主催者がまとめてくれているので、そのままコピーさせてもらうこととした。


 〈 浮島丸殉難64周年追悼集会にあたって
1.1945年(昭和20)年後5時過ぎ、日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン)が舞鶴湾に入港してきた。青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族(3735名)を乗せ、8月22日午後10時に大湊港を出港、釜山へ向かう途中針路を変更、日本海を南下して舞鶴湾に入ってきたものである。
 入港してきた浮島丸は下佐波賀沖にさしかかったところ、突如大爆発音とともに中央部から二つに折れて沈没した。
 突然の大事故により、近辺住民などの懸命の救助活動にも拘わらず朝鮮人524名、乗組員25名、計549名(政府発表)の犠牲者を出す大惨事となった。

2.1910年(明治43)日本は統治権の委譲を朝鮮に強制した。日本は朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、武断政治と同化政策をとった。朝鮮人民は日本語の使用を強制され、日本名を名乗らせられ(創氏改名)異民族の宗教である神社参拝を強要された。又、法律の悪用による土地取り上げが行われた。
 15年戦争の進行と共に、朝鮮人にも徴兵・徴用がおこなわれた。徴用された人達は炭坑・鉄道や軍の施設の建設工事等に従事させられ苛酷な労働が強制された。浮島丸はこれらの人の帰国のため配船されたものであった

3.1954年(昭和29)4月1日、東舞鶴公会堂において第一回浮島丸殉難者慰霊祭が同実行委員会と東本願寺の共催で行われた。実行委員会の呼びかけ人は、大山郁夫(参議院議員)未川博(立命館大総長)住谷悦治(同志社大総長)大谷蛍潤(東本願寺)その他の各氏である。 以来、東本願寺別院(市内浮島、至徳寺)などで追悼慰霊祭が行われてきたが、追悼の碑建立の気運が起こり、佐谷靖舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、幅広い市民の浄財と府、市の補助金を得、用地も現場を目前にした最適の地を地元のご協力で確保することができ、土地の造成は地元の建設業者の手で、像の制作は市内中学校美術教師の集団制作によって、1978年(昭和53)に完成した。
 「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」は同年「浮島丸殉難者追悼実行委員会」に改組し、追悼式典を行ってきたが、個人が参加できるよう1996年(平成8)「浮島丸殉難者を追悼する会」に改めた。

4.「会」は1989年(昭和64)事件の経緯と死没者名を収録した「浮島丸事件の記録」を刊行し、1998年(平成10)には「殉難の像」建立20周年記念行事として青森、東京、京都、舞鶴の関係者による「シンポジュウム」と事件と運動を回顧する演劇「海を見つめる群像の物語」を公演した。

5.1995年(平成7)浮島丸事件に題材をとった映画「エイジアンブルー・浮島丸サコン」が製作され、舞鶴ロケには多数の市民がェキストラとして参加した。この映画の中で舞鶴は、犠牲者を救助し、追悼を続けるヒューマンな街として描かれている。この映画は2001年(平成13)から韓国各地で上映運動が始まり、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり2002年(平成14)、2003年(平成15)には韓国・光州市民との交流・相互訪問が行われた。

6.1996年(平成8)本集会に対し厚生大臣名で追悼の電報がよせられ、以後毎年、本集会に対し、政府から弔慰の表明が行われている。

7.沈没していた浮島丸は1950年(昭和25)に後半分が、1954年(昭和29)に前半分が引き上げられた。浮島丸事件犠牲者のうち、まだ引き取られていない遺骨280体が東京目黒の祐天寺に祀られている。

8.2005年(平成17)中国・北京大学での映画上映が行われた。こうした国際交流の成果を受けて、2005年(平成17)、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジウム」を韓国・延世大学、中国・北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力を得て行いました。又、これまでの追悼事業の取り組みが評価され、駐大阪大韓民国総領事館総領事による感謝状が贈られました。11月6日追悼する会の野田幹夫会長死去。

9.2009年 追悼する会総会を開催し、顧問須永安郎 会長余江勝彦を選出する。

10.2007年7月 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会による「浮鳥丸事件沈没地の視地調査及び懇談会」実施。

11. 2008年4月浮島丸事件の聞き取り、下佐波賀出身 当時5歳父の救助活動手伝う。
8月23日追悼の碑建立30周年「金一志韓国伝統舞踊のゆうべ」公演
8月24日浮島丸殉難64周年追悼集会
駐大阪大韓民国総領事館総領事呉栄煥氏公式初参加。  〉 

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追悼の辞

黙祷の後、追悼の辞が述べられた。

主催者・浮島丸殉難者を追悼する会会長・余江勝彦氏




 〈 追悼の辞
 本日ここに「浮島丸殉難64周年追悼集会」を開催するにあたり、549名の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を揚げます。
 1945年8月24日静けさを取り戻した舞鶴湾に入ってきた浮島丸が、午後5時20分頃ここ下佐波賀沖で、突然発生したすさまじい爆発音と共に、真っ二つに折れて沈んでいきました。静かな海は阿鼻叫喚の生き地獄に一変しました。
 急を知った近くの佐波賀の人々などの懸命の救助活動にもかかわらず、婦人・乳幼児を含む乗客524名が乗組員の日本兵士25名と共に、かけがえのない生命を失ってしまったのです。
この大惨事には長い歴史的な背景がありました。
 1910年、日本は統治権の委譲を朝鮮に強制して以来、36年に及ぶ日本の朝鮮に対する植民地政策の結果、土地も仕事も失った人達が激増、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。
 一方、第二次世界大戦勃発後、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が、朝鮮から次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行のための労働力として日本の各地で苛酷な労働を強いられました。
 1945年8月15日の日本の敗戦は、その人々にとって苦役からの解放と明るい未来をめざす日となりました。
 大湊警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送船「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出発して航行を続けました。連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入って直後にこの大惨事が起きたのです。夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が喜びに沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇したのです。尊い生命を失われた皆様の悲しみと無念さは如何ばかりであったでしょう。
 私達は広範な市民の方々の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、31年前の1978年8月、事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、毎年追悼集会を開催して今日に至っています。
 これは犠牲者の皆様方のご冥福を心からお祈りすると共に、そのような歴史的背景を持つ「浮島丸事件」を風化させず、我が国が過去の過ちと教訓を忘れて、再び同じ道を歩むことを決して許してはならないと考えたからです。
 今日、浮島丸事件は、映画「エイジアンブルー浮島丸サコン」の上映運動等を通じて、日本全国や韓国、北京の多くの人々の知る所となりました。最近では、日本全国から年間を通して訪れる人も増え、学習や研修のために来られるようになりました。
 私達の追悼事業は、「二度と誤った過去の歴史を繰り返さない」という意味を持っています。私達は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼集会を続けてきました。
 戦後64年の長い時間が経ちましたが、東京、中目黒の「祐天寺」にはいまだ「故郷」へ帰れない「遺骨280体」が残っています。このことは「浮島丸事件」が、「日本が起こした戦争」の後始末がまだ終わっていないと考えるものです。そして、日本の戦争の歴史を、「加害」と「被害」の両面から見ていくことで、正しい歴史の事実を理解することが出来ると考えます。
 私達が願う日本海(東海)は、友好の船が行き交う平和な海であります。
「浮島丸事件」を忘れないことを「日本人の責任」として、事件から教訓を学びとり、平和の確立に向けてこれからも追悼事業を続けて行きます。
このことを浮島丸犠牲者の皆様にお約束いたします。
 日朝、日韓国民の友好関係のさらなる発展を念じ、犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。

2009年8月24日
浮島丸殉難者を追悼する会
会長 余江勝彦  〉 

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↓  在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会副委員長 池勝一氏の追悼の辞





 〈 浮島丸六十四周年追悼の辞
 浮島丸殉難六十四周年を迎え、悲しみと憤りを新たに、549名犠牲者と御遺族の皆様に衷心より哀悼の意を表します。
 64年前の8月24日、下北半島などで労働を強いられ、「亡国の民」の苦しみと残酷な差別、そして虐待に耐え、ようやく祖国解放を迎え、夢にまで見た故郷へ向かう同胞たち3735名を乗せた浮島丸が突然、大爆発を起こし、夕凪の、舞鶴湾佐波賀の地は修羅場と化し、多くの人たちの懸命な救助活動にもかかわらず、尊い命が無惨に奪われました。
 犠牲者の無念さとご遺族の悲しみ、そしてまた、この日の傷跡に今も苦しんでいらっしゃる生存者のみなさまのお気持ちは、いかばかりでありましょう。
 そしてまた、いまだに故郷に帰れず、東京中目黒の祐天寺に残されている「遺骨280体」を思うとき、私はあらためて、強い憤りを禁じえません。
 日本政府は64年という長い時が流れたにもかかわらず、この「事件」の真相解明も公式謝罪もせず、補償も実施しようとしません。
 そればかりか、朝・日関係改善を望まない日本政府が、2006年から実行し、エスカレートの一途をたたどってきた、共和国に対する「制裁」は、朝・日関係をさらに悪化させたばかりか、在日朝鮮人の権利を著しく侵害し、生活を脅かす結果をもたらしています。最近は対朝鮮全面輸出禁止処置を口実に、郵便・小包・生活必需品を送ることまでも、規制するにいたり、「常軌を逸している」「在日朝鮮人いじめの最たるもの」との批判の声が上がっています。
 これは平和と国際友好を願う大きな流れに逆行しているといわざるをえません。朝米開係も新しい流れを迎えようとしている今、こんなに長い年月が経ったにもかかわらず「浮島丸事件」は終わっていません。そしてご遺族の皆さんを始め、多くの関係者の方々はこの六十四年の間にご高齢となられ、亡くなられた方も少なくありません。
 私たちは、この不幸なできごとを決して風化させることなく、世代を継いで、過去の歴史的教訓を正しく活かさなくてはなりません。
 朝鮮総聯は、これからも「わが民族同士」の精神にのっとって、祖国の平和統一と、朝日友好、アジアの平和のためにますます努力してまいります。
 ご遺族の皆さん、そして「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々をはじめ、地元佐波賀の皆様のご健勝とご多幸を祈頗して、私の追悼の挨拶とします。

2009年8月24日
在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会
副委員長 池勝一
通訳 呉明姫(京都朝鮮歌舞団団員)  〉 

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↓  在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部支団長 金英王氏の追悼の辞





 〈 追悼の辞
 本日「浮島丸殉難64周年追悼集会」にあたり韓国民団を代表して殉難者の皆様方に謹んで追悼の辞を捧げます。
 又事件当時困難な場所での救助活動にご尽力なされました地元佐波賀の皆様方に改めて御礼申し上げます。
 そして1954年以来長きに亘って「浮島丸殉難者を追悼する会」を開催されてこられました役員及び会員の皆様に衷心より感謝の意を述べたいと思います。
 日本国による我が祖国の36年間に及ぶ植民地支配の中、強制連行そして強制労働を強いられ挙句の果てに無念の死を遂げた524名の同胞を思う度、又「はまなすの花咲きそめて」を歌う度に涙がこみ上げてきます。そして思います、戦争は絶対にしてはならないと。
 「浮島丸殉難者を追悼する会」関係者各位の長年の御苦労があってもなおまだこの浮島丸事件を知らない人が日本においても、又我々の本国においても沢山います。事件を風化させない為にも出来るだけ多くの人に知ってもらい戦争の悲惨さを再認織し二度とこの様な事が起こらないようにしなければなりません。
 我々は過去を克服し未来に向かって進んでいかなければなりません。今よりも増して韓日両国の親善と交流の為に努力し相互理解を深め共生できる社会を作っていかなければなりません。
 祖国韓国においては既に「永住外国人」に対して地方参政権を付与しており2012年には国政参政権も付与されます。日本においても運動を始めて16年、念願であった「永住外国人」に対する地方参政権の獲得の最後とも言える機会が訪れようとしています。なんとしてでも実現しなければなりません。最後に私は殉難者のご冥福と韓日友好のさらなる発展そして韓半島周辺国・東アジアそして世界の平和を心から願い追悼の辞と致します。
2009年8月24日
  在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部支団長 金英王
通訳 在日韓国婦人会京都府舞鶴支部会長 閔二生  〉 


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来賓及びメッセージ紹介


 来賓の方々はたくさんおられたが、ここでは舛添厚生労働大臣のメッセージのみを紹介させていただく。


 〈 追悼の辞
 本日、浮島丸殉難64周年追悼集会が挙行されるに当たりまして、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
 64年前のこの日、ここ舞鶴において海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す惨事となりました。
 この惨事を知る方々も高齢化する今日においてこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に語り継いで行かなければなりません。
 ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々の御冥福を心からお祈り致します。
 なお、厚生労働省でお預かりしております御遺骨につきましては、東京都の祐天寺に丁重に安置されているところでございますが、厚生労働省といたしましては、一日も早く御遺族の皆様に御遺骨を返還できますよう、韓国政府と交渉を行っているところです。
 御遺族の方々並びに関係各位の御健勝を心より祈念申し上げます。
 厚生労働大臣 舛添要一  〉 

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献花


↓ 京都府知事 (代理)
浮島丸追悼集会:献花

↓ 舞鶴市長
浮島丸追悼集会:献花

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献花・メッセージ


 駐大阪大韓民国総領事館総領事 呉栄煥氏
浮島丸追悼集会:メッセージ
メッセージの全文は、このページの下の方にあります。
浮島丸追悼集会



 朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮人側代表
在日本朝鮮人総聯合会中央本部 副議長 高徳羽氏
浮島丸追悼集会:メッセージ
メッセージの全文は、このページの下の方にあります。
浮島丸爆沈事件 六十四年追悼に際して

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慰霊の舞

 金一志韓国伝統舞芸術院の皆さん。足場がなくてうまく写せませんでした。後半部分のみです。ごめんなさい。





追悼歌

 京都朝鮮中高級学校の皆さん。



  朝鮮人浮島丸殉難者追悼歌
はまなすの花 咲きそめて
          韓 丘庸 作詞
          金 正花 作曲

1花咲咲そめん はまなすの
 丘に眠れる 浮島よ
 (いしずえ)()に こうべたれ
 かの日 偲びつ 遠い影
 ああ わが故郷(ふるさと) ふるさとへ
 はやる心の 流れかし
 うらみは深き 舞鶴よ
  アリラン アラリヨ アラリヨ

2踏みしだかれし 浜辺にも
 行きかう船の マストにも
 つらき涙の 港街
 きみの 叫び声に 振り向けば
 ああ わが故郷 ふるさとへ
 思いこめて 懐かしき
 歌う心の 舞鶴よ
  アリラン アラリヨ アラリヨ

3いずれの日にか 帰りなん
 死して みたまの 帰りなん
 今日も 飛びかう 白き蝶に
 わが同胞(はらから)の 姿見で
 ああ わが故郷 ふるさとへ
 いで立つ人の 慕わしき
 祈りささげん 舞鶴よ

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参加者全員による献花










 今回の参加者は300名だったそうである。また府立東舞鶴高校ボート部部員20名が会場設営に協力してくれたそうである(拍手)。



最後の献花も終わり海には犠牲者に手向けられた花々が漂う。そのすぐ先を沖に向けて航行していく のは海上自衛隊の小型高速ミサイル艇で、44ノット(80キロ) 以上の高速がでる、高性能コンピューターシステムを搭載していてまずは 獲物を逃さない。不審船を追っ掛けるために新たに作られた艇である。日本海は晴朗なれど波高し、われらはしっかりと歴史の教訓は生かせるだろうか。



↑64年前の浮島丸は、このミサイル艇とは逆の方向に進んでいた。航路はほぼ同じと思われる。爆発が起きたのは、その岬の鼻を右手に廻ったすぐの地点で、ここからは陰になって見えないことになる。
そんな所で爆発したのなら、ずくになぜこちらの佐波賀の浅瀬の方へ船を向けなかったのか、そうれば多くの人が助かったと思われるが、そのような努力をした話はまったくない。そのまままっすぐに惰性で進んで戸島の近くまで持っていっている。浮島丸事件には数々の疑惑がつきまとうが、ここも一つの大きな疑惑点で、どうもわざと深い方へもっていって沈めるつもりがあったのではないか、などと私は疑惑を持ち続けている。


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メッセージ



 〈 浮島丸殉難64周年追悼集会 追悼式(2009.8.24)
 ただいまご紹介にあずかりました駐大阪韓国総領事の呉栄煥でございます。まず、浮島丸殉難追悼集会にお集まりになられた犠牲者の御遺族の皆様を始め、京都府及び舞鶴市関係者の皆様方に韓国を代表し、感謝の意を表します。
 今年で64年を迎える浮島丸殉難追悼集会は、来年の韓日併呑100周年を控え、特に意義深いと言うことができます。今から64年前、この舞鶴の海上で、思いがけない船舶沈没事故の犠牲となられた多くの同胞の方々のご冥福を心よりお祈り致しますと共に、ご遺族の皆様に哀悼の意を表します。
 自国を失ったという悲しさに加え、他国で頼るすべもなく生きてきた末、帰国を目の前に虚しくも惨憺たる悲劇を迎えた事を偲ぶと、今なお悲痛の思いを禁じ得ません。幸いなことに、かつての過ちを認め、謝罪しようとする日本人の方々が中心となり、浮島丸殉難碑を建てられた事で、犠牲者の方々が安らぎの中で永眠されるものと願っております。
 日本が過去の誤った歴史に対し、心からの反省と謝罪こそが、64年前にこの舞鶴港で犠牲となった御霊を慰めることはもちろん、両国の和解を通じ、浮島丸惨事のような不幸な歴史を二度と繰り返さないという誓いになるでしょう。
 今年は光復64周年にあたり、来年は、冒頭でもお話ししましたように韓日併呑100周年という節目を迎えます。韓国は、数百万人が犠牲となった韓国戦争の焼け跡から立ち上がり、南北が分断されたのにも関わらず、なみなみならぬ努力によって経済成長を成し遂げ、世界が羨む経済強国へと跳躍しました。
 特に、昨年の米国発の世界金融危機による経済危機の荒波にも関わらず、OECD国家の中で最も早い速度で経済回復していると外国のメディアに報道されるほどの底力を見せております。今日の韓国が、これほど豊かに発展できたのは、日本植民地下という困難な時代であったのにも関わらず、祖国を取り戻そうとする志と情熱があったからこそ、可能であったと思っております。
 昨年の韓日首脳会談で述べられた‘一衣帯水’という表現のように、両国関係が不幸であった過去の歴史を乗り越え、21世紀に向かって未来志向的な関係を構築し、国際社会で成熟したパートナーシップを発揮することを祈願します。最後にもう一度、犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り致します。

駐大阪大韓民国総領事館総領事 呉栄煥  〉 




 〈 浮島丸爆沈事件 六十四年追悼に際して

 浮島丸爆沈事件から64年目を迎え、私は、朝鮮人強制連行真相調査団(朝鮮側)を代表して事件の犠牲者と遺族に謹んで哀悼の意を表します。
 64年前、祖国解放を迎え、夢にまで見た故郷へ向かう3千余人の同胞達が乗った浮島丸は突然の大爆発を起こし、尊い命が無惨に奪われました。
 気勢者の無念さとご遺族・生存者の深い悲しみ、そして未だ故郷に帰れず、遺族の手に返還されることなく、東京中目黒の祐天寺に残されている「遺骨280体」、これらを思うとき64年という年月が経過したにもかかわらず、この「事件」に対する補償もおろか、真相究明も公式謝罪さえも全く実施しない日本政府のあり方に対して、私はあらためて強い憤りを禁じえません。
 2003年9月、北・南・在日の研究者と関連団体がピョンヤンで行った解放後初のシンポジウムでは、この事件を「我が民族に対する重大な人権侵害である」とし、真相究明と責任を明確にすることは「我が民族の尊厳と名誉に関する問題であり被害者のハン(恨)をときほぐす民族史的課題」(共同声明)としました。
 解放後、異国の地である青森発の浮島丸になぜ、同胞たちが乗船していたのでしょうか。根本原因は日本の朝鮮占領(植民地)の結果であり占領がなければ、そもそもこの事件があり得なかったはずです。
 ところが日本政府は、解放後も阜本に連行され朝鮮人強制連行被害者等の帰国問題に取り組むことなく、浮島丸の遺骨すら放置したのでした。
 朝鮮人強制連行真相究明調査団が2003年探し当て公開した、日本外務省の内部文書では浮島丸被害者の遺骨収集すらなされていなかった1950年2月時点で、すでに「賠償請求は容認できない」と日本政府の対応が示されていました。すなわち、犠牲者の遺骨収集よりも、責任回避が優先されたのです。
 事件から64年後の今日に至っても、まだ様々資料が公開されず、過去の対応が継続され、視在に至っている現状についてまことに遺憾であります。
 それ故に、朝鮮総聯、そして朝鮮人強制連行真相調査団は40年近く良心的な各界日本の方々と連携し、強制連行や強制労働・徴用、遺骨返還問題などのために、日本政府に対する要請活動や国連を初めとする国際会議においてのアピール活動またフィールドワークや、学術討論会を通した実態解明活動など、具体的に行動をしてまいりました。
 しかし、現在も問題解決は遅々として進まず、被害者は多数亡くなる中で、過去清算に対する問題意識は風化しつつある残念な現状であります。そればかりか、エスカレートの一途をたどってきた、日本政府による対朝鮮「制裁」は朝・日関係をさらに悪化させ、ついには対朝鮮全面輸出泉止処置を口実に、郵便・小包・生活必需品を送ることまで規制するなど、これら一連の流れは、過去の日本による在日朝鮮人に対する抑圧と差別を現在に彷彿するものであり、私達は大変危惧しています。
 このまま朝鮮と日本の間で改善がなされず、非正常な関係が続くとすれば、それは両国間のみならずアジアの平和と共存、共栄を促進する上で大きな障害になるのではないでしょうか。
 このように長い年月が経ったにもかかわらず、「浮島丸事件」は終わっているとは言い難いと指摘せざるを得ません。私達は、この不幸な出来事を決して風化させることなく、世代を継いで、過去の歴史的教訓を現在そして未来に活かして行かなければなりません。
 朝鮮総聯、そして朝鮮人強制連行真相調査団は、朝日友好、アジアの平和のためにますます努力してまいります。最後に、舞鶴に記念碑を建て毎年追悼を行い様々な活動を繰り広げている皆様に感謝と敬意を表しながら、私の追悼の挨拶とします。
2009年8月24日
朝鮮人強制連行真相究明調査団朝鮮人側代表
在日本朝鮮人総聯合会中央本部副議長 高徳羽  〉 



 〈 第六四回浮島丸殉難者追悼集会へのメッセージ
平和な日本を祈念して

 第六四回浮島丸殉難者追悼集会にさいして連帯のメッセージをお送りします。
 浮島丸事件は、あれからもう64年たっているのに、いまでも謎の多い事件だと思っています。
 その最大の原因は日本国政府がこの事件を真剣に解明しようとしなかったことにあります。
 この事件では、沈没の原因が「触雷」か「自爆」かというが大きな争点となってきました。真相解明のためにこの問題は重要であることは勿論だが、もっと根本的なことは明治以来日本国が進めてきたアジア政策がアジア諸国を「近隣友好国」としてではなく、植民地支配圏として侵略してきたことにあると思っています。
 浮島丸下北の会では、この方針の下に浮島丸事件の運動を「平和運動」「九条を守る会」などと連携して、すすめています。
 今年も八月二二日。浮島丸が大湊港を出港した日に「第一七回浮島丸出港追悼集会を行いました。
 今年は曹洞宗の住職さんが「平和・人権・環境問題」と肯して講演され、この運動の広がりが実感されました。
 集会の成功をお祈りします。

二〇〇九年八月二四日
青森県むつ市
浮島丸出港追悼集会実行委員長
斎藤作治  〉 




 〈 追悼
 浮島丸の爆沈64周年を迎え同胞犠牲者の方々へ深い哀悼の意を表明し、再び繰り返さないために努力し、朝鮮と日本の友好交流と理解の増進に努める決意であります。
2009年8月24日
京都府朝鮮人強制連行真相調査団
代表 柳球菜  〉 



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以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17
事件そのものについては「浮島丸事件
など参照して下さい。



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