「雄島参り」は、雄島(冠島・老人嶋)に鎮座する老人嶋神社に参詣するということだが、老人嶋神社は『三代実録』の元慶4年(880)10月13日条に「丹後国正六位上恩津嶋神」と見えて、式内社などよりも古く確認される。また『丹後風土記残缺』には、「凡海坐息津島社」「凡海息津島P坐日子社」と見えて、「セエの宮さん」も含めて、『残缺』が和銅6 (713) 年の勅命に基づいて編纂された各国別のいわゆる「古風土記」であるなら、奈良時代にはすでに両社の存在が記録され確認されることになる。 沿岸各地の漁民たちの信仰に支えられ続けた両社であり、「雄島参り」の行事も少なくともその当時からすでに行われていたものであろうと推測される。千年をユウに越える伝統をもつ行事である。 その祭日となっているのは若狭湾西部周辺の集落ごとによってマチマチ(6〜7月くらい)だが、舞鶴では例年6月1日に行われている。 雄島は、舞鶴市内だが、この島へ上陸できる機会はこの日だけ。 島はオオミズナギドリ繁殖地で、その保護のため普段は上陸が禁止されている。 野原・小橋・三浜の3集落共同の神社で、「雄島参り」の祭礼の日だけは上陸が許される。 今年もまた幸いにも野原の皆様の一団に加えてもらうことができた。 |
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雄島参りの参詣船団の航行そのものが伝統民俗行事で、各集落は旗・ノボリなどで飾り立てた大型船に乗り込んで、太鼓を叩き笛を吹き、何人も手漕ぎの艪や櫂で、エッサエッサで島へ渡ったという。 今はみなエンジン付きの船で手漕ぎの光景は姿を消したが、ペーロン(白龍)やハーリー(爬龍)を彷彿させる。遠く南方の中国南部や東南アジアの漁撈民たちに発したものであろうか。その子孫なので手漕ぎでも早い者で1時間半ばかりはかかったと言われる。今は早い船だと30分、波高かったり、足の遅い船もあるが、1時間もかかると式典(10:30)に間に合わない。懸命に走らなければならないようにギリギリ時間設定されているよう。野原港は9:30出発。 「第一八奈舞丸」という大敷網を引き上げる母船、コイツならどんな大漁でもヘッサラ、日本海の少々の荒波などもヘでもなかろう。雄島へは余裕で渡れる。 以前は人力で、手で網を上げていた、重い、今は巻上機だろうか、舷側に並んでいる。これは助かるだろう。 (これがその大敷網。成生岬の西側に2基は張られていた、大きなもので、全体は写しきれないが、この下に袋網が入っていて、ここから引き上げるもののよう。) 雄島に上陸しても道はない。 老人嶋神社ヘはこうした石だらけの所を歩いて行く。
老人嶋神社の神事。知事が見えられていた。 伝統的には神酒と「カケのイオ」などを捧げ、ノボリを立てて「海の安全」と「豊漁」などが祈られる。 この面白い、ケシカラヌ姿をした石は玄武岩のよう。↑この島にはない石。そこの石段もこの石かも知れない。どこか遠くから運ばれてきたのではなかろうか。 夫婦神がこうして祀られているのかも知れない。 丸い石でもいいよう。これなら海岸にいくらでもある。 『三代実録』の「丹後国正六位上恩津嶋神」、また『風土記残欠』神名帳の「凡海坐息津嶋社(おおしあまにいますおきつしまのやしろ)」で、この恩津嶋・息津嶋が訛り、いつからか老人嶋(おいとしま)神社と呼ばれている。 当社は、『風土記残缺』に、 祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。 「日子郎女神」はエビス娘という意味か、Pの宮さん(エビスさん)に祀られている神であろうか。 古来冠島の神は女神とされていて、元々は中国南部や台湾の媽祖のような女神であろうか。娘媽はノウマと読まれ「野間」とか「野母」といった地名や神名にもなっている、南の方が中心のようだが丹後にもこのような形で見られるよう。 参道に石造物が何体がある、その一つ。 水の女神のように思われる。泉の女神の中国的な意匠か。
祭日の当日だけ氏子に限り、あるいは学術調査とか、上陸が許されている。
神事を終えると直会。あちこちで村々毎に行われる。ウマイ。えらいゴッツォになりました。 |
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