雄島参り '15 (舞鶴市・老人嶋神社)


 舞鶴では例年6月1日に行われる「雄島参り」。この日が近づくと今年も夏が来たかの感が強まる。丹後の海の祭典の始まりである。
老人嶋神社鎮座の雄島(冠島・老人嶋)は、舞鶴市内だが、この島へ行ける機会はこの日だけ。
島はオオミズナギドリ繁殖地で、その保護のため普段は上陸が禁止されている。
野原・小橋・三浜の3集落共同の神社で、「雄島参り」の祭礼の日だけは上陸が許される。
今年もまた幸いにも野原の皆様の一団に加えてもらうことができた。



雄島参り。伝統の競艇様式

雄島参り
長崎のペーロン(白龍)や沖縄のハーリー(爬龍)が有名だが、中国南部や東南アジアの漁撈民たちが本場である。もっと細長い競艇専用の舟が用いられ、何十人かの漕ぎ手が櫂で銅鑼や太鼓に合わせて一斉に漕ぐ伝統的民俗行事。近くでは出雲の美保神社の諸手船神事が知られている。ペーロンやハーリーは二次的・三次的な伝播かも知れないが、何波もの伝播の最北端、最東端が当島だといわれている。
昭和2年に死亡者が出たためにそれ以降は手漕ぎはないが、かつては手漕ぎの競艇型式で参詣したと伝わる。手漕ぎでも早い者は1時間30分、今はエンジンで30分であるが、参詣漁船団が冠島めがけ、ダダダと走っていたのが、グウィ〜ンとエンジンのうなり音が変わり黒煙を噴き上げ、フルスピードで突っ走る。これもこうした人類史の長い伝統に基づくものかも知れない。別にスピードを競っているのではないが、ローリング、ピッチング、風に吹かれ、波をかぶり、足場のないカメラマンは往生コクだぁゃ。
野原港を出てすぐの所に高島(左の松の生えた島)と右手の岩礁がある、その間を抜けて行く、その先に薄く見えるのが冠島(雄島)。追い越しは嫌うという地域もあるというが、野原の場合はそうしたことはないよう、出る時と着いた時に海面で三回左回りする地域もあるが、野原は厳格ではないようである。これらもこの世ではない常世の神界に入るための儀式であろうか。
老人嶋神社の祭礼は特には芸能などが奉納されることはない、この「奉納競艇(遺制)」が悠久の過去から伝わる、また未来へとつないでいかねばならないものであろうか。



『宮津市史』
島の神は女神と考えられていて、山の神のように女性が参ることはタブーとされてきた。また、トモブトなど無動力船を用いていたときは、たいてい複数の船に分かれて競漕が行われ、漕ぎ手は若い衆であった。沿岸の漁村では、男が成人すると小さい船を櫓一本であやつり、冠島に参拝して無事戻ってはじめて一人前の男とあつかわれた。舞鶴市吉原の「節句参り」の風習はこの発展型であろう。

『吉原百年誌』
お島(冠島)参りと漁船競漕
 舞鶴から北東約二十八キロメートルの海上に冠島があります。この島は周囲四キロメートルたらずの小さな無人島で、「オオミズナギドリ」生息地として大正十三年に天然記念物に指定されています。
 通称大島とも、雄鳥とも呼んでいますこの島の、老人島大明神は、音から漁業者が、豊漁と海上安全を祈願しています。例年旧五月の節句には、数隻の船を仕立ててお参りして、青年による漁船競漕が行われました。しかし昭和二年六月五日の午後、競漕の練習中に心臓麻痺のため一名死亡といった不幸なことがありました。それ以来、この競漕は行われていません。
 この行事について古老は、「おしま(老人島)参りは、昔からあり、東吉原は胴船(どうぶね)で西吉原は網船で参った。胴船には、四十人から五十人くらい乗ったが、西吉原の網船は、八枚の櫂(かい)で漕ぎ、おしまから競漕した。」と云っています。いつの時代から初められたかは判りませんが、西吉原町保存の永代記録帳に、次のような記録が残されています。
「文政十一年(一八二八)五月より御嶋参り之とふ舟(胴船の意)宮津屋六右衛門殿方より札三百匁ニ而借り付ニいたし則代札相渡し申候」
これを見ますと、昔機械船がなかった時代、胴船で何十人かの人々が、おしま参りをしたことがうかがえます。漁船競漕については、記録してありません。
 大正十四年京都府教育会加佐郡部会発行の「加佐都誌」に、当日の模様が次のように記録されています。
「尚本島には、老人島大明神の祠があって、漁夫の尊崇が甚だ篤い。それで陰暦五月五日の例祭には非常な賑ひを呈する。共の日には、舞鶴から吉原の漁夫が競舟と称する漁船の競漕を催す古習があるが、それは選手の者が、其の日に吉原を出てこの島に渡り、終夜近海で漁撈した上、翌朝は身を潔めて神に祈りを捧げ、櫓一挺に、櫂八本の漁船二隻に組を分け、正午一斉に纜を解いて、十八海里の海上を腕の限りに競漕して舞鶴に帰るのである。
 其の決勝点は、湾内横波(白杉)の松で、疾いのは約一時間半で、着するといふ。それから数多の歓迎船に擁せられて、漕手の若者は様々の扮装を凝らし、鼕々たる太鼓の音勇ましく吉原へ凱旋する。これを雄鳥戻りと称へ、当日の朝から満街の士女は、舟を装ふてこの盛挙を観るため、湾内に輻輳するが、先着の舟が眼に入ると、歓呼の声、喝釆の響、海波に相和して、観る者も漕ぐ者も、狂せんばかりの壮観を呈するのである。」
 前述のように、漁船競漕は現在は行われていませんが、海上安全と豊漁祈願の老人島(おしま)詣りの風習は、いまも続けられています。


   老人嶋神社の神事

 『風土記残欠』神名帳の「凡海坐息津嶋社(おおしあまにますおきつしまのやしろ)」で、息津嶋が訛り、いつからか老人嶋(おいとしま)神社と呼ばれている。
 






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  直会

 神事を終えると直会。あちこちで村々毎に行われている。天気は申し分なし、普段は口にできないゴォッオがごっそりと進められる。










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 伝説 常世の国ヘの入口

かえりは、冠島をまわってであった。立神岩も見ることができた。
冠島・沓島と立神岩は常世島とも呼ばれている。
『丹後風土記残欠』
ときに大宝元年(701)三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。


冠島の北側はこの世のものとも思えない、神秘の姿をしている。
その中でもさらに特に、この立神岩あたりこそが圧巻でトリハダもの。
トリしか近づけない90度に切り立つ断崖である。

常世の国への入口がこのあたりにあるという。



行いの良い人だけしか見つけられないとか。

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過去の参詣記録
雄島参り '19
雄島参り '18
雄島参り '17
雄島参り '16
雄島参り '14
雄島参り '13
雄島参り '12
雄島参り '11

冠島・沓島
老人嶋神社

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