雄島参り '14 (舞鶴市・老人嶋神社)


 舞鶴では例年6月1日に行われる「雄島参り」。
老人嶋神社鎮座の雄島(冠島・老人嶋)は、舞鶴市内だが、この島へ行ける機会はこの日だけ。
島はオオミズナギドリ繁殖地、保護のため普段は上陸が禁止されている。
野原・小橋・三浜の3集落共同の神社で、
「雄島参り」の祭礼の日だけは上陸が許される。

冠島
大正13年に内務省が立てた石柱↑
「おほみづなぎどり蕃殖地」と書かれている。
しかしこれは過去のものとなろうとしている、
昔は20万羽もいましたが、ワレラの不注意により今はゼロですと。




島の周辺は豊かな漁場なので、オオミズナギドリもいるときはいるのだが、今年は見かけたのはこれら数羽だけだったよう。ウミネコの幼鳥と姿がよく似ているが、飛び方で見分けるより仕方がない。写真の飛び方はオオミズナギドリである。いずれも船から遠かった。遠くに大きなムレが浮かんでいたが、オオミズナギドリかわからない。



   今年も野原のみなさんにお世話になりました。

 村上家はじめ野原のみなさんに大変お世話になりました、厚く御礼申し上げます。
9時30分各港出発で、10時くらいに冠島に到着する。雄島参り競艇の伝統によりフルスピードである。ペーロン競争など有名であるが、広く東南アジアの海人一般にみられる習俗で、冠島が東限といわれている。





卑弥呼と邪馬台国伴とし子さん 今年は古代史家・郷土史家の伴とし子さん(←)もご一緒、彼女には冠島はことのほか思い入れ深い。
海部氏系図では始祖神・火明命が降臨した島で、海部直や凡海連などの祖神を祀るとされる凡海息津嶋、史家としての出発点のような島と思うが、訪れるのは今回が初めてだとか。
最近こんな書を出されたそう。→
『卑弥呼と邪馬台国』(テレビせとうち・2014.4.20発行)
新邪馬台国G5サミットという、北九州と大和をのぞいた当時の五大強国代表が集結したものという。
この書では5大強国のトップを切って伴さんが書いている。
もし書店にあれば読んで下さい、ネットからも買えるよう(2000円+税)
仲間のためなら犠牲にもなるわよ、の侠気心あるいい人、ぜひ買ってくだされ。
 雄島づけ

伝統の「雄島づけ」でヘサキから着けますから乗り降りがヤバイですよ。などと話していたのだが、彼女も丹後海人の子、ヘーキのようであった。てぎわよく着けてくれるが、重いカメラ満載のワタシの方がよほどに足元がヤバイ。

 



   オオミズナギドリの巣穴


 魚付林に少し入った老人嶋神社のあたりもオオミズナギドリの巣穴だらけ。
先に市教委などが調査に入っていて、それによれば、「オオミズナギドリの巣穴が激減! 個体数も減った?」などと報道されていた。「35年前の調査と比較して巣穴の数が大きく減少し、個体数も減少している可能性がある」としている。 全国的にも緯度が低い繁殖地で巣穴が減り、緯度が高い繁殖地で巣穴が増える傾向にあるという。温暖化でトリが少し北へ移動しているのかも知れない。この日の舞鶴の気温は31.9℃、2日は35.3℃でこれは全国最高、3日は32.1℃になっている。こんな気温はワタシが子どもの頃は一年でも一度もなかった、真夏の最高が31℃であった、高校生の頃まで毎日気温を測り、新聞発表の公式気温も見て、両方を書き留めていたのでしっかりと記憶している、その頃までは31.X℃が最高であった。小さいトリにとって4℃はどれくらいの違いに感じられるのか、たぶん人間の何倍にもなるだろう、まもなく冠島からはまったく姿を消すかも知れない。
 オオミズナギドリの巣穴

 巣穴といっても使っていないような巣穴が多いよう、枯れ枝枯葉木の根が吹きだまっているような巣穴やコケが生えているような巣穴。こうしたものは使われていない廃棄されたカラ巣と思われるが、ほとんどがそうした状態であった。使われているような穴が見つからない。人の世界では人口減少、鳥の世界でもそうしたことなのであろうか。鳥がいないということは次は人間だから、人間も目先のモウケばかりに呆けてないで、知性があると自称するのならば、遠い先と地球全体をよく考えないとダメと警告を発しているのかも…



ボクはトリだけを写しに来たんです、と300ミリ望遠だけを持ってやってきた若者がいたことがあったが、そうした「思い入れ」が広報関係には一般になく、面白くもクソもない、イヤイヤが丸見えのさめすぎくらいしかない。オオミズナギドリは神の島の神の鳥だ、いまその絶滅が迫っているなどとの危機意識はまったく頭のハシにすらない様子に見える。世には愛鳥家も多い、日々野鳥を観察しておられる方々も多いが、オオミズナギドリは関心を寄せながらも手の出しようがよかろうと思うので一助にと書き留めておくようなことで、オオミズナギドリは今では「京都府の鳥」であるが、新聞報道も地方版に載るくらいのこと、京都市内の人すら目にすることはなかろう、ましてや全国民は何も知るまい。幸いにも当島へ上陸した者は、少し熱く入れ込んで伝える市民であってほしいものと願うのである。


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   P宮神社

 恵比須さんと言っても通じなかったが、「せのみや」、「せいのみや」と呼ばれているホコラである。エビスさんが祀られているといい、耳が悪いので石を投げて音をだして寝てるのを起こしてからお願いをすることになっている。(これは当社だけでなく、エビスあるところなら広く見られる風習という。)今日は見られないが右わきに「恵比須大明神」の幟が立てられた古い写真が残る。

 P宮神社

 『丹後風土記残欠』神名帳の「凡海息津島瀬坐日子社」である。
日子をどう読むかであるが、一般にはヒコで、当社に関してはそれ以外の読みなどは聞いたことはない、私もそれに従ってきが、エビスが祀られているのなら、ヒルコがいいのではなかろうか。籠神社の末社・恵美須神社が本殿の東隣に祀られているが、蛭子(ひるこ)神社が正式名のようである、加悦町の蛭子山古墳とか蛭子(ひるこ)と書いてエビスと読むようにヒルコとはエビスのことである。金日成はキムイルソンで、彼の国では日はイル、我国では日はヒルと読んだ。舞鶴市教委などは目子と読む、尾張氏の目子郎女だというのであるが、それは関係なかろうと思う。
凡海息津島瀬坐日子社は、オオシアマのオキツシマのセにいますヒルコのやしろと読むのが正解かと思われる。祭神はヒルコすなわちエビスさんである(当社では男女不明)。
凡海息津島瀬坐とこうも何重にもきびしく限定するということは加佐郡内には他所にも同名の社があったからで、それはエビス社であってこそ成り立つものでなかろうか、ヒコ神社などはきいたこともなく、ましてあちこちにあったとは思えないのである。
Pというのはこの社の鎮座する目の前の浜あたりを呼ぶ、ここは岩浜ではなく、ここだけ20メートルばかりは砂浜に近い小石の浜になっている。一般に川がないと浜はできにくいのだが、川のない島の上陸には最適の浜である。
こうした重要な浜にあり、上陸したら何はともあれまずはこの社にお参りをするのだから、当社こそがもっとも古くからの、冠島のヌシのような社と思われる。
ヒルコやエビスとは何か。七福神のエベッサンは、魚と釣竿を持った姿だが、これが本来の姿かとなるとややこしく、古くなればなるほど何が何だかわからなくなってくる神様で、後世に正しく来歴が伝えられていない神様のようである。日子と書くから天照以前の天照神かも知れない。
海辺や島などの辺境に住む者たちを「えびす」と蔑称することもある、彼らがエベッサンを祀っていたからそう呼ばれたのかも知れない。のちにやってきた天孫系とは対立した先住土着の海人系の神であったと思われる。おそらくこの海やこの島を創造した根源神と考えられ、また冠島は常世島とも呼ばれたというし、海の漂流物を「えびす」とも称する漁民の信仰もあるし、商人は富を得させてくれる神でもあるので、豊饒と富を約束してくれる神とも思われる。またえびす大黒とも呼ばれるが大黒とは大国主命ともされ、冠島も大国主命が作った島の伝えがある。水死体を「えびす」とも呼ぶので、死の世界をも支配した、あの世もこの世も含めた全世界のヌシと考えられていた、とんでもなく偉大な神様であったと思われる。
エベッサンは耳が大きい、エビス耳という、これが特徴のようで、エビス族はミミ族とかミ族とも呼ばれたようである。
陸耳御笠とか天日槍は出石「太耳」の娘を娶っている。若狭には耳川や彌美(耳)神社があるし、舞鶴の当社の祭祀村の三浜も耳浜の意味かも知れない。
これは古い、老人嶋神社よりずっと古いです、縄文時代からあったんではないですかね、などと言うと伴さんは「ホントー」と信じてない様子であった。



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   老人嶋神社の神事

 『風土記残欠』神名帳の「凡海坐息津嶋社(おおしあまにますおきつしまのやしろ)」で、息津嶋が訛り、いつからか老人嶋(おいとしま)神社と呼ばれている。
 老人嶋神社

『三代実録』の元慶四年十月十三日癸巳条に、丹後国正六位上恩津島神葛島五位下、と見える国史現在社とされる。
祭神は同風土記残欠や勘注系図によれば、天火明命と日子郎女神とある。祭神や祭祀者が明確だから比較的新しい社と思われる。
天(彦)火明命は海部氏や凡海氏の始祖神であり、当社は同氏らが祀った社と考えられる。当社は庶民の社ではなく、地方権力側が新たに作った社かと思われる。当社の鳥居のある前の海岸は大きな石のゴロゴロする浜であり、凪の日でも足腰弱いと難しく、まして波高ければここからは上陸できない、瀬宮さんの浜から上陸して、大石ゴロゴロの歩きにくい浜をヨタヨタ歩いてからたどり着かねば参拝できない。ここは一等地ではなく、何か背後に磐座でもあるのかと探してみたが別にそれらしきものは何もない、どうも瀬宮を避けただけのように思われる。
(また鎮座する方向が奇妙である、鳥居があって参道が続くが、参道の突き当たりに参道に面してたいていは神社はあるが、当社はそうではなく、参道に沿う方向にある、これは普通は末社だとかが置かれる位置になり、主殿がおかれる位置ではない、いつの時代かに動かしたのかも知れない、本来は参道の突き当たりに参道に向き合う位置にあったのを裏山が崩れてきたのでこの位置に置き直しているのかも知れない。)

 老人嶋神社
(上の写真↑で言えば、参道が右側からまっすぐに続いてきているのだが、その突き当たり(赤い幟が立っている位置)にはなく、急にくるっと90度方向が変わる、この位置は隣の石造物などがならぶ方向で主殿の置かれる位置ではないと思う。本来は幟の立てられている方向にあったのを、崩れてくる山の圧力に耐えられず、この位置に代えているのではなかろうか。社殿のま後に島の最高峰が来るのかは見通しがきかないので確かめられないが、地図でみる範囲では来ない、すこし左へそれていそうである。
あるいは元々は社殿というものがなく、島全体をご神体と見て、今人が立っている位置から赤い幟の方を向いて祈っていたが、後に社殿がないのは何とも頼りないように思い、幟のある場所に社殿を立てたいが、ガラガラと崩れてくる所であった、ここはやめとこかいや、となって、少し方向がおかしいがここしか空き地がないので、ここに立てようかと考えたのか、そうした何か事情がありそうに思われる。)

もう一つの祭神、日子郎女、普通はヒコイラツメと呼ばれる、舞鶴市教委は目子郎女とする、瀬坐日子社の日子をヒルコと読むのならここもヒルコのイラツメだろうか。
ヒルコは骨もないようなものだから、男女の区別はないと思われるが、当社は女神のエビスも祀るようである。
当島に女のエビスさんがいたのではなく、恐らく沓島にエビス女神がいたのだとも思われるが、沓島は上陸すら難しい島なので、当社に合祀された、あるいは当島のP宮にエビス女神はいるとされていたのではなかろうか。日子郎女は本来は当地周辺海人庶民の最高女神だから、海部・凡海氏の当社に祀られるのは合点がいかないが、自分らの神だけでなくやはり地元民の古くからの主神も祀るべしと考えたか、日子郎女と冠島古来の本来の主神女神をこう書いて祀ったものかと思われる。それなら瀬宮とダブルが面も出てくるが、正式に官祭で祀るのはこっちだとしたのかも知れない。まあ今では凡海氏はもう見当たらないし、海部氏もあまり関心がないのか、彼らの氏神であったものがかなり古くから浦々が管理する神社になっている。
『丹後風土記残欠』には、つぎのように記される。(原文は漢文)
凡海郷。凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□(国府か)を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮が凡(おほしく)枯れて以て壱島に成る。故に凡海と云う。ときに□(大か)宝元年(701)三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。(以下八行虫食)
この史料が作られたのは大宝地震の701年以降、和銅六年に風土記編纂令の713年以降のエックス年、風土記編纂令は以後も何度も出ているので、その何度目のものかはわからない、伊預部馬養連の逸文風土記との関係もわからない。もしもっとも早ければ720年くらいのものということになる。まことに各分野から注目されてよいはずの史料である、舞鶴市教委関係などでは偽書などと呼んでいる、お高くとまるだけの見下ろし視線、もうこのあたりから郷土に対する庶民に対する対等の視線からの思い入れがない…、役場だからある程度は認めるとしても、問題はその姿勢を在野のバカどもがまねをすることである。まねるくらいならまだよいが、まるっきりなりきってしまい、それに気がつきもしないことであろうか。野にあるのなら野にあるものらしい視点をつらぬいてくれや。

またまた、つまらぬおしゃべりをしてしまったが、
 神事は11時から。
 老人嶋神社の神事

 老人嶋神社祭礼

 老人嶋神社祭礼ののぼり
赤いのは野原・小橋・三浜のもののよう、白いのはそのほかの村からのもののよう。

 
「カケのイオ」と呼ばれるこのあたりで獲れた魚と酒を捧げて祈る。




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   直会

 神様にお供えした供物を下げてきて、直会がはじまる。のめやくえや、さらにベッピンさんと一緒、本来ならこれを楽しみに祭りはあるのだが、ワタクシの場合は朝からゴッツォになりっぱなしのため、正直いえばもう食欲があまりないような、バチアタリな話ではあるが…
 



 直会

あちこちで村々毎に行われている。





かえりは、冠島をまわってであった。立神岩も見ることができた。
 立神岩




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伝説


『舞鶴の民話5』(イラストも)
昔は三月三日が雄鳥まつりで、大漁旗をなびかせて、漁民はこの日に訪れた。雄鳥の女神さんは、年に一度このひなの節句の朝に、男神である伊根の新井崎神社の神様に会いにいかれる。船霊型奉納船の船底がその日にはぬれているそうなといい伝える。
 ある漁夫が、こっそりと朝早く島にいき、女神が船に乗るのをみようと浜にひそんでいた。女神はそれにきずき恥じらい、とうとうその日は船にのれず会いにいけなかった。そのため女神が怒り、年中島がゆれ荒れた。その漁夫は家にかえれず、行方不明となってしまった。このことがあってから三月三日はさけて、六月一日が雄島まいりの日となった。



『舞鶴の民話』1
雌島づけ(三浜)
 天然記念物として、また京都府の鳥となっているオオミズナギドリは、若狭湾上の冠島で繁殖している。この島は東西五○○メートル、南北一三○○メートルで、全島がやわらかい砂のような土におおわれている。この土は江戸時代からすみついているこの鳥のフンが主である。
 この鳥は渡り鳥で四月になれば南の国からかえってくる。島のあちこちに横穴をつくり産卵の場所とする。
 この島のあたりはイサキ、スルメイカなど魚の宝庫で、別名を雄島ともいい、暴風雨などのとき避難の島ともなる。この島の所有権のことで、こんな話が残っている。
 江戸時代に田辺藩と宮津藩の間で領有権争いがおこった。島はどちらの藩へも海上七里と等距離にあり、自分の領地だといってたがいに譲らない。相談の結果、両方から舟を出し、競艇の結果で決着をつけることになった。
 両藩では、それぞれこぎ手の名手をよりすぐった。これは将来、漁の命運にかかわることなので、両藩の漁師たちも応援に立ちあがり、飾りたてた魚船を出発点や海上、冠島の近くに浮べた。
 同時刻に「ヨーイドン」の合図。
さすがによりすぐった名主ばかり。がんじょうな体、きん肉も盛りあがり、競走艇は海上を飛ぶように進んだ。またたくまに応援の船は後にのこされてしまう。決勝点の冠島近くに迫ってきたが、ほとんど差がない。両方の船が見えてからは、互に力が入って船足は早くなり、同時に決勝点に着くのではないかと思われた。
 宮津藩の方は陸岸近くになると、着船の定法通り(かじ)を旋回して首尾を向きかえ、(とも)から磯に着けようとした。
 一方、田辺藩は何を思ったか、へさきの方からそのまま磯へ向って乗りあげ、宮津藩より早く着いた。
田辺藩の勝利だった。漁夫たちは船べりをたたいて喜んだ。
 これ以来へさきから着岸する定法はずれのやり方を(雄島づけ)というようになった。
 雄島には老人島神社があり航海安全、豊漁の守神として若狭湾内の漁民の信仰があつい。毎年六月一日、五日には大浦地区のほか吉原地区の漁民たちが船を飾り、雄島まいりの行事が続けられている。
 オオミズナギドリは神の鳥で、むかし(さば鳥)ともいい、魚群のありかを教えてくれた。また嵐のときなど、雄島は漁夫の避難所となり、暴風雨がおさまるまで、長いときは、三、四日もこの島にとどまったのだった。



『舞鶴の民話4』
冠嶋 (舞鶴)
 若狭湾上の無人島で、舞鶴港から二十八キロの距離にある。私の民話第一集で「雄鳥づけ」で記したことがあるが、この島は東西○・四キロ、南北約一・三キロ、最高の標高は一七○メートル、山地の大部分は角閉石安岩で南部の平地は沖積層の砂礫からなる。東と西は中新世の凝灰岩その他で絶壁をなしているところが多く、海岸は岩場で砂浜はない。この島の北側には、兄弟島の沓島が、一・二キロのところにある。この二島をあわせて沖の島とよばれているし、又、雄島女島ともいっている。古老の話によると文殊菩薩が冠沓を海に投げたによって、名付けられたと伝えられている。
 島は対島海流の影響で、常緑、落葉樹が混生する原生林で、また京都府の府島である。オオミズナギの繁殖地としても有名である。宝暦十一年(一七六一年)の地誌『丹哥府志』には、「サバ鳥」と記され、この鳥が洋上に乱舞している所には、必ずサバなどの魚が群遊して、漁場の目安ともなっている。宝歴十三年の『宮津府誌』は次のように記している。
 「宮津より舟路八里、田辺より三里、伊根より三里、島の廻り一里六町、山林あり大竹茂り、其の島の中腹に神社あり水無月の頃はタケノコ多く、島に暴風雨で避難した漁師たちの食とせり。その島の食物、家に持ち帰ることは島の神が惜しみたまひ、必ずバチがあたるという。諸国の廻船航行中、にわかに風波ひどくなり難風にあったときは、此の島に難をさけて順風を待つと、島内には鍋かま、うすなどがあり食事の用に用いるとある。又この島には鷹隼の巣ありと」
 田辺や宮津藩の鷹隼のひな取りも盛であったらしく近世来の『丹後国加佐郡旧語集』は、両島の子隼取りについて
 「沖の島に毎年隼巣あり、その島はすばらしく、巣は山上の崖にあって、人足ではなかなか行くことが出来ない。窟の内に在り、上よりもつこうにのせ、つなを付下して、子隼を取り、その取り去ったあとには、必ず七斗三升一合の米を置いておくのが例なり」
と述べている。田井村のところでは、
 「ひなをとらえて、扇子を置く是、礼なり」
と知られている。
 この島の社は、老人島神社といい、江戸時代には老人島明神、恩津島社とよばれた。漁民の崇敬あつく、大浦半島の野原、小橋、三浜の氏神として紀られてきた。祭神は天火明命、目子郎女命、天火明神と海辺の漁民が祖神と仰いだ神だという。もとは海部氏によって奉祀された神であった。この祭礼には大漁の旗を飾った漁船が一家そろってお参りし、一日の今でいうレクレーションとして、浜辺でごちそうをたべる。その盛大なお祭りであること古老たちも幼いときからの一つのたのしみとして、今だに思い出多いものだと語ってくれた。
 社のところにのぼりが立っているが、これは漁民が海難に逢わぬよう願をかけたもので、島と神社が海の民に尊崇されている様子がうかがえる。三浜、野原、小橋の三村持廻りで祭祀者が鍵を所有することになっているとも付け加えて古老はほこらしげに語ってくれた。



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冠島・沓島
老人嶋神社

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意外かものメモ
伴とし子さんはマリントピアのオーナー。
マリントピアは宮津市日置のあたり右にも左にもニョキニョキ建ち並んでいるマンションやレストラン、リゾート施設等で、一体どれだけあるのか、一杯立っているコレら↓のこと。舞鶴ではスーパー・ニシガキで知られるが、そのにしがき社長は親戚にあたるそう。お母さんは須田の人だそう、丹波王家の日葉酢媛の血も引いているのかも(ご本人はそうしたことはおっしゃらない、私の勝手な解釈説)

マリントピアリゾート




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