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「元伊勢内宮・節分祭」は、内宮の皇大神社(元伊勢内宮)の行事。近頃はすたれが著しいが、かつては年間8万人の参詣者、3千人の宿泊者があったという。式年遷宮祭ともなれば、福知山から宮津までの宿々はみな参拝客で埋まったと伝えられる。 遠近の人々が特に雲集したという、この社の祭礼には、八朔祭の練込みと節分の裸参りがあった。そうした過去の大賑わいをしのびながらの節分祭である。厄年男の裸参りはもう見られないが、かわって「三鬼打ち神事」の鬼やらいと、「盃割厄除神事」が行われる。 鬼が登場しなくては大江山のネウチがない、鬼も、それを追ってる年女も女ばかりの様子で、男のカゲはカケラもない、女の時代のようである。迫力あってコエーエエエーー |
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元伊勢内宮皇大神社の祭礼、節分と立春には、 節分祭として、三鬼打ち神事(三日午後2時)、盃割厄除神事(三日午後3時)が催され、 立春祭として、立春祭神事(四日午前10時)が催される。 2013年は雪もなく、暖かい日になった。
いり豆をまく追儺(ついな)で、節分行事として社寺でも家庭でも盛んに行われる、豆まきの唱え言は、ここでは一般的な「鬼は外、福は内」である。 内宮では「三鬼打ちの神事」といわれ、病鬼・陰鬼・貧鬼とされる赤鬼青鬼黒鬼の三鬼を年男年女(ヘビ年生まれの人)や厄年の男女が神前へ豆まきしながら追う、鬼は神前でお祓いをうけて、病鬼は元気に、陰鬼は陽気に、貧鬼は富貴に生まれ変わり、おたふくの姿に変身するというもの。昭和初期ごろから始まったとされ、3日の午後2時から催されている。 豆が配られる。 子供達には超人気の鬼たち。 神楽殿前広場に三鬼が現れ、豆に追われて拝殿へと移動していく。 拝殿の中の秘事をのぞいてみると…
引き続いて行われる「盃割厄除け神事」。 御門神社で催されるもので、神事ののち、「大祓詞」を全員で唱えて、次に「エイ、エイ」と声を掛けながら白布を八つ裂きにして、それを「鬼の岩屋」に投げ込む。そして神酒を飲みほし、その盃(杯)を「厄除け石」に勢いよくぶつけて割る。 新しい春を迎えるにあたり、これまでに身についた罪や厄をおとし、封じ込め、祓い浄めようという願いが込められたもののよう。使われる呪具はこれら↓ これは半分だけ↑ …罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ紳 国つ紳 八百萬神等共に 聞こし食せと白す。 と唱えられる。
『大江町風土記2』 〈 節分のはだかまいり 四十二のヤク年の人や、病気の人は、外宮さんや内宮さんに、「どうかヤク年が無事にすぎますように。」といったり、「病気が早くなおりますように。病気をなおしてもらったおれいにはだかまいりをしますから。」と言って、おたのみしました。そして、節分には、そのおれい参りをしたということです。 節分の朝は、がんをかけた人だけでなく、兄弟や親類の人たちもいっしょになって水で体をきよめ、男はまわし一つ、女の人は夏のゆかた一枚になって、こしにしめなわをしめ、はだしでまだ暗い雪の中をつれだって、「ほい、ほい」と、かけ声いさましく走って外宮さんと内宮さんへお参りしたそうです。 明治二十年頃から、まるはだかで参る事は警察からとめられ、男もシャシ一枚だけはつけるようになったそうです。 いまはもう、そんなことする人はありません。さむくて、かぜひきます。いまは、バスにのって参ります。 昭和になってからは、はだか参りをする人を、だんだんみかけないようになりました。節分のばん、河守のコンピラさんの前と、公庄のイツキさんや、熊野宮社の前には、いまでも火をたいているのを、みなさんは知っているでしょう。はだか参りの人が、あたたまるためにたいたのが、いまものこっているのです。河守上の外宮さんと内宮さんには、和田山や綾部地方からまで、たくさん人がお参りにきたものでした。 また、「節分あれ」といって、いろいろと参るとちゅうで、いたづらをしたそうです。人の通る道のまん中に、大きな石をおいたり、たんぼの小屋を、道にかつぎだしてみたり、店屋のかんばんを、とりかえっこしたり…。暗いのをいいことに、そんなことをする悪い習慣がながくのこっていたのです。 いまは、そんな馬鹿なことをして喜ぶ人はなくなりました。 〉 『大江町史』 〈 皇大神社「龍灯の杉」 ヒノキ科 元伊勢皇大神社本殿に向かって左前に巨大な杉がそびえている。これが、古くから皇大神社の神木として崇敬されてきた「龍灯の杉」である。樹齢はさだかではないが、周囲(目通り)七○二センチメートル・樹高約三○メートルにも達する老杉である。 「龍灯の杉」には、節分の夜丑みつ時になると、この老杉に龍神の捧げる灯、すなわち龍灯がともると伝えられる。その灯は、下枝から次第に上枝へと昇ってやがて天に至るという伝承があって、これが「龍灯の杉」の名のおこりとなっている。「龍灯の杉」は、過去何回かの落雷によって樹幹は焼けて空洞化し、正面は頂上部まで枯れあがって樹勢はおとろえを見せている。 昭和三十七年のことである。信者がこの杉に捧げた燈明の火があやまって燃え広がり、隣接の拷機神社の茅葺き屋根に延焼したが、この火が神木の片側を焦がすこととなった。正面側の樹皮が黒く焼け焦げ、枯れが進んでいるのはこのためである。… 〉 当神社の由緒は↓ 「元伊勢皇大神社(元伊勢内宮)」 「元伊勢豊受大神社(元伊勢外宮)」 |
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