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 松尾寺の仏舞 '10


 松尾寺の仏舞は、毎年5月8日の12時。松尾寺本堂で執り行われる。

  卯月八日の松尾寺まゐり 心の札所をここぞと定め
  青葉山道仲よく登る 恋の遍路の二人づれ二人づれ
   ほんにほんにさ のほほんのほい


舞鶴市政10周年を記念して作られた「舞鶴風流音頭」(作詞:吉井 勇 作曲:大村能章)。長い長いこんな調子の歌詞が続いて、これは8番目、もう誰も聞いてはいない。歌は市民の誰もが忘れてしまった。
しかし卯月八日の仏舞は続く。遙か遠くさかのぼって唐の時代から途切れることもなく。ここでは今もその「歴史の化石」を見ることができる。遣唐使がいのち懸けて持ち帰ったものかも知れない唐のカケラ。いにしえの世界最大都市・長安の仏舞。いにしえの奈良の都の仏舞。まるでウソのような「歴史の奇跡」が今年も舞った。


 西国29番の札所 「青葉山松尾寺」そのものについては、
松尾寺(舞鶴市・29番札所)
など参照して下さい。

 



松尾寺の地図


松尾寺の仏舞
↑ 「松尾寺の仏舞」は、昼の12時から始まります、だいたい30分ばかりです。

 「松尾寺の仏舞」は、毎年5月8日に行われる伝統民俗行事。国の重要無形民俗文化財。
もとは卯月八日の行事であったが、新暦になって5月8日の花祭に行われるようになったという。

舞の起源は、奈良時代に唐から伝えられた宮廷舞楽の「菩薩」が諸大寺で舞われ各地に伝播したもの。中央の諸大寺では既に滅んだ古い舞楽が、ここに(こんなのは全世界にあるいはここだけかも知れない)生き続けている。歴史の「生きた化石」(唯一のものかも知れない)。古い文化が周縁に残存するとする説の裏付資料のようなものかも。それにしても古すぎるが…。

 大日・釈迦・弥陀の各如来二人宛計六人がそれぞれの仏仮面をかむり、胸前に下げた鼓を打ちながら六人の奏楽に合わせて典雅な舞いをする。横笛三、篥篳一、鼓羯一、太鼓一の計六人が奏楽する。役をつとめるのは地元の壇家の人々で、現在もこれらの人々によって継承される。

松尾寺の仏舞

 参詣者は年々減少しているような感じです。本堂内のこんな場所へは行くことなどは以前はムリだったのです、車でお寺まで登ってくるのすら難しかった、が、最近は割合に楽に行けるようです。
本堂はあまり広くはなく多くは入れませんので、2時間ばかり早く来て、空いている場所に座って待っていればよろしい、意外と「かぶりつき」で拝むこともできるかも。
一生に一度くらいはそんな時を持つのもよろしいです、遠いご先祖たちの篤い信仰心が体内で目覚め騒ぎます。


すでに江戸時代の記録に
 『丹哥府志』に、
【仏舞】
松尾寺の会式は毎年四月八日なり、其会式の日に僧徒集りて仏舞といふ舞をまひぬ。其次第始めに警固のもの八九人本堂のの左に座す、次に和尚列を正し本坊より出で、本堂に上り席に就く、次に春日惣太夫といふもの和尚の次に座す、春日惣太夫は若狭中野浦の人なり、是の人の祖先海中より馬頭観音を得たり、すなはち松尾の馬頭観音なり、是以松尾寺の会式は開帳の日其子孫が与るといふ、次に給人客席に就く、次に大日如来、釈迦如来、弥陀如来三像の仮面をかむるもの凡六人(大日二人、弥陀二人、釈迦二人)給人の前に寄る、於是給人楽を奏す、其楽に従ふて仮面を蒙るもの舞を舞ふ、是を仏舞といふ、古風の態いと笑しきものなり。

 『加佐郡旧語集』に、
三十三所順礼二十九番之札所也 二十五年目ニハ開帳有 毎年四月八日会式也  中ニ観音ヲ置 大日 弥陀 釈迦 六体ノ仏面ヲ当テ仏舞在リ 皆此寺中山伏勤ム 是ヲ松尾祭ト云習ス
松尾寺の仏舞


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 仏舞(松尾寺)の動画



 仏舞のほぼ全編です。20分はあると思います、3つに分けています。2010年のものです。

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 松尾寺の仏舞の文献資料


松尾寺の仏舞

松尾寺の仏舞

松尾寺の仏舞


 『舞鶴市史(各説編)』
仏舞(松尾)
 松尾寺(真言宗)に伝承されているこの会式は、もと卯月八日すなわち釈迦の降誕日の行事であったが、新暦になって毎年五月八日に行われるようになった。
 当寺は現在までに度々災厄に会って、中世の文書をほとんど焼失しているため、この伝来の詳細は分からない。記録ではいまのところ「寛永十四年(一六三七)十月十一日の入仏式に音楽をもってした」とするのが古く、次いで慶安四年(一六五一)には「仏舞道具」云々の文書があることから見て、江戸初期には行われていたことが分かる。
 中央の諸大寺では既に滅んでいるこの古い舞楽が、いまここに生き続けていることは貴重である。
 「加佐郡旧語集」(一七三五)や「丹哥府志」(一八四一)の記事を要約すると「大日・釈迦・弥陀の各如来二人宛計六人がそれぞれの仏仮面をかむり、胸前に下げた鼓を打ちながら六人の奏楽に合わせて典雅な舞い」をするもので、横笛三、篥篳一、鼓羯一、太鼓一の計六人が奏楽する。
 この仏教芸能は遠く唐から奈良時代の大寺院に伝えられた後、地方に流伝したものといわれているが、現在用いられている楽譜は安永七年(一七七八)の写本である。
 これらの役をつとめるのは地元の壇家の人達で、現在もこれらの人々によって継承されている。


 『舞鶴の文化財』
松尾寺の仏舞
指定年月日 昭和58年4月15日
保護団体 松尾寺仏舞保存会(字松尾)
 仏舞は西国巡礼29番札所の松尾寺に継承されてきた会式で、釈尊の降誕日である卯月八日の行事であったが、新暦になって5月8日の花祭に行われるようになった。
 この舞の起源は、奈良時代に唐から伝えられた宮廷舞楽の「菩薩」が諸大寺で舞われ各地に伝播したものである。
 山内65坊を誇った松尾寺も、災厄によって記録が失われ、舞の由来は不詳であるが、すでに江戸初期の寛永14年(1637)に行われた記録が残っている。
 もとは、山内の寺僧が舞い伝えたが、山坊の消滅とともに舞・楽とも門前の人々が伝承している。
 舞の様式は、本堂内の舞台で光背つきの金色の仏面をつけた大日・釈迦・阿弥陀の各如来二人ずつ計六人の舞人(ホトケ)が、安永7年(1778)の写本による譜で奏される龍笛・篳篥・羯鼓・太鼓(昔は三管三鼓)の音に合わせ、典雅でゆるやかな舞をくりかえす。
 畿内には他に類のない貴重な伝承であり、法会楽として芸能的にも価値の高いものてある。

 『市史編纂だより』(51.3.1)
松尾寺をめぐる諸問題
 「仏舞い」の原点について
   編さん委員  井上金次郎
私は今年に入ってから市域の仏教文化を究明するため、その源流を密教寺院とその周辺に求めて、いままでに収集した資料を整理している段階である。この作業の過程で思われることは、特に大寺だとか、名刹だとか喧伝されて、広く参拝者を集めた古刹ほど諸種の記録が残されていることである。
 従って私達もここに焦点を合わすことになるのは当然の帰結である。
 このことは、市史完刊の命題のもとに限られた時間内で私に課せられた重責を果たすためには、あるいは安易だとお叱りを受けるかも知れないが、このような意味で収集した資料を大幹として、他に普遍し言及していかねば、先の見透しが全然立たないのも史実なのである。
いま、これらの資料の中でいままで余り注目されなかった松尾寺の「イム舞い」の原点について、二、三の史料から言及してみたい。
 現在、この民俗芸能は毎年五月八日に行われているが、その行事の内容は宝暦十三年(1763)より天保十二年(1841)の間に、宮津藩士によって書かれた「丹哥府志」に今と変わらぬ作法をそのまま記している。この片鱗は舞鶴市史「旧語集」にも見られるが、いずれもこれらの資料には、これの源流について記すところかない。
 明治以後、大正九年にはじめて府の史跡勝地調査会がこれにふれたが、その報告書には「当寺四月八日ハ卯月八日ノ名ニヨリ近郷ニ知ラレ仏舞ノ式アリ菩薩等ノ面ヲ被リ舞楽ヲナスモノ(略)今日伝フル所ノ面ハ六面アリ田中三右衛門作卜云ヒ近世ノ作ニ係ルモノナリト雖其起源或ハ古キニアルモ知ルベカラズ 又所作ニツキ見ルニ古楽ノ風ヲ伝フル如ク(略)」と載せ、最近では昭和44年刊の府文化財図録に
 「仏の舞の名で各地に伝えられるや、菩薩来迎会とよばれるものは、もと舞楽の菩薩として中国の唐から渡来して中央の諸大寺の法会で行われ−−それが古代末期から中世を通じて民間に流伝し民俗芸能となってのこったものといわれる。
 その中で松尾寺の仏の舞には輪舞のときに舞楽(菩薩)の壱越調の一部らしい曲があり、舞楽(菩薩)が早く中央諸大寺の法会で菩薩練道の形になったもののなごりがみられるとされる−−火災のために古い記録が失われ現在では江戸中期の後半以降に記録された数点の舞譜、楽譜およびこの舞が六百年以上も前にはじまったという所伝をのこすのみである」と記している程度で、松尾寺に定着した時代については、両書とも中世初期にまで遡り得ることを示唆している。
 果たしてこのように、これが中世にまで定着時を遡及させてよいであろうか、断定するにはなお問題が多い。私の知る限りでは、この芸能を舞技と音楽に類別して分析し、学術的に総合して、その結果をまとめた論稿は、昭和39年民俗分文化研究所の「紀要第1集」に発表された水原渭江氏の「嶺南松尾寺に伝える仏舞に関する研究」が唯一のものである。私達はこれによって、その定着時点は知り得なかったにしても、この成果によって今まで近づくことのできなかった雅楽と、これに関連をもつ仏舞いの内容からある程度の本質的な変遷を知ることができた。
 これによれば(現在収蔵されている史料として、その伝承の絶えることを恐れた舞技についての譜は、美濃紙半折5枚のもの1冊があり、これには「四月八日仏舞所作、青葉山松尾密寺」と2行に
記され、その奥書に「安永七戊戌(1778)春二月恐廃忘記大慨然紛冗之間不能委悉後日再記之」と墨書されている。このほか残された音楽資料を奥書によって分類すると、大体次の年号のものに分けられるとして、
 1、寛廷四年(1751)四月 住職慧雲
 2、宝暦八年(1758)四月 住職寛竜
 3、享和三年(1803)九月 僧 慈澄
 4、文化十二年(1815)のもの1点、及び年号不明のもの2点があったとされている。
 更に、これらの楽譜を比較検討した上の所論の概要は「文化十二年よりも64年前の寛延四年頃の分が施律の乱れがあるにしても五常楽(雅楽)という楽曲が二返しの正式を踏んで演奏されていたということ、またこの寛廷四年の頃はすてに厳密な意味での正調音楽(雅楽)は存在せず楽の古老の忘れかけた記憶をもとにしたいわゆる仏舞の音楽原譜が作られていたと思われること」「また寛延四年の音楽と宝暦八年の音楽、享和三年の音楽更に文化十二年の音楽の乱れ具合を時代的に眺めてゆけば或は音楽が伝えられた時期を推定できるかも知れない」と結論づけしている。
 また、この芸能の定着時については別項で「何時の頃に松尾寺にこの音楽が伝えられたかという点に関しては分明ではない。今日残る数点の楽器の譜の中に見える三つの奥書並びに一つの舞譜の奥書等の年代から推せば今より二百十数年以前にすでに仏舞に用いる音楽が存在していたと言う事実は認めることはできる。けれどもそれが何時の頃であるかと言う点については何の資料もない」と報告して、前出史料の奥書年代を起点としてある程度の推測はされたであろうが、その定着時の推定発表はさしひかえられている。
 しかし、譜の乱れてゆく過程や、その速度から考えて奥書時点をそう遠く遡及するものではないことが、言外に十分窺える文意でもあることは否めな。古代に開基されて以来、史料に見えるだけでも数度にわたる災危の高目録をもつ同寺には、前記以外の史料は見当たらないという。
 このような中で、この芸能の原形である法楽「菩薩の曲」が宮廷を中心とする楽家の専有から離れて、古代末から中世にかけて民間に伝承され、この寺に定着したのは、一体何時ごろであったのか。これを知る的確な史料は見当たらないが、一応私の収集資料の中からその二、三をあげて一つの手がかりとし、徴証を積み上げてゆきたい。
 松尾寺の歴史的な変遷や、その大要を知る資料としてかなり信憑性のあるものとしては、次のようを史料をあげることができる。
 1 徳治三年(1308)八月二十七日勧進文
 2 永正十年(1513)八月日   勧進文
 3 大永四年(1524)十一月十五日縁記
 4 慶安二年(1649)仲春時正日鋳鐘勧進文
 5 延宝三年(1675)九月日 勧進文並に縁記
 6 元禄九年(1696)三月日 縁記
 7 宝永三年(1706)八月日 勧進文
       一次年代以下略一
 この七史料のうちで仏舞いに関連あるものは、(5)の延宝三年九月に法印真祐が記した勧進文に附随した縁起であるが、この文中に「爰慶安二乙丑年(1649)二月十四日ニ二尺六寸ノ鐘一本、同辛卯年(1651)仏舞道具 宮殿、鰐口神明社・弁才天・右悉建立」とあり、その他の史料には仏舞いについて何もふれていない。このことを享保十六年(1731)五月上旬に書上げたとされる「丹後国加佐郡寺社町在旧記」の松尾寺の記事と比較すると、これには「其後鹿原山宝生坊入寺あって遍明院と号・二王再興・釣鐘木・慶安二己丑年成就せり、其後仏舞の道具を求、今四月八日興行する也」と記している。
 この二史料のうち、その一つは寺の記録で、これには仏舞道具を求めたのは慶安辛卯年の四年(1651)であると記し、これを市井の人の手になる「寺社町在旧記」が裏書したことになり、これが成縞した享保十六年ごろ既に四月八日に同寺が伝承する「舞儀音楽会式」である仏舞が、その行事の中で確立し、定着していたことを知ることができる。またこれに用いられる田中三右衛門作の楽面もこのころ作られて、他の楽器類とともに来寺したものと思われる。
 このように定期的な会式作法の確立と、その中の行事としての仏舞い定着時は慶安四年以降で、享保ごろには四月八日に行われていたことが明らかになったが、それにしても、楽人といい、舞人という多数の人達でささえられるこの芸能が、慶安時代、真祐法印によって中興された松尾寺の法会に、唐突としてあらわれ、行事化されるようになったのであろうか。私はいま、これらの文化史の底辺にある流れを追求するための史料として、元禄五年(1692)三月松尾寺をめぐる争論に差し出された寺社奉行宛の若狭史料から、これに関連した部分を抜粋してとりあえず後考にまつこととしよう。
 「一、寛永七庚午年(1630)本堂致火に焼本尊並に諸仏画致焼失突時に寛永十四丁丑年(1637)従若狭・本尊造立仕・則京都より竜蔵院(高浜町に廃址あり)ヘ御差被成、其より音楽にて同年十月十一日に松尾寺に入仏仕り候」

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