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  延年祭 '13(宇良神社) 













 浦島太郎を祀る宇良神社の祭典は、8月3日(元は陰暦7月7日(太陽暦8月7日)であったが昭和34年伊根町の祭日の統一により8月3日となるが、最近はその近くの土日)の例大祭の夏祭り(本庄祭)と、3月17日の廷年祭(棒祭・福祭)の春祭りがある。(7月7日は七夕であるが、浦島伝説と七夕・羽衣伝説と何か不思議な一致のあることについては、島児神社」参照。)
このページは延年祭に奉納される翁三番叟。
近隣にみない伝統と高い格調がある。動画はこのページの下の方↓にあります。

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   2013年の延年祭

 延年祭は、春祭りで棒祭、福祭ともいい、浦嶋子に最もゆかりのある三野家一門が拝殿に参集し、座祭を執り行い、削り掛の福棒およびハナを参拝者に頒つ行事が執り行われる。毎年社人三野家にて一門が参籠し、潔斎して神木として削り掛の花をつくり、花は俵と繭の形につくり、その年の米、蚕の幸を願い寿福を祈る行事である。(『伊根町誌』)

神事
神事は9時くらいから執り行われる。
神事
正面に見える三角形の姿美しい山、名を問うけれど、「別にありません」とのこと。
この山を意識してる神社であり、神事だと私は思うのだが、忘れられてからかなり歳月があったのか、そのようなことを書いている文献などはない。
大漁祈願の浦島太郎の神社でそれ以外は何も想定されてないようなのだが、この神事はこの山の神様をここへ降ろしているのだと私は思える、降りてこられた山の神は「福棒」やハナに付くのでなかろうか。

当選番号が順次発表される。
クジ
あたりクジは12本ある。1本百円でこのクジを購入して番号を照合する。
コヨリを戻して「五百八十三番」とか書かれているのを確認していく大変な作業。
景品
あたり!こうした品物と福棒がもらえる。上位ほどお餅や御神酒のサイズが大きくなる。(このサイズだと10位くらいか)

「福棒」というのは、円柱の木の棒で、         これ↑

以前は、親類縁者隣近所一同一族に集まってもらい、皆であたりを祝った。それほどに人気があったそう。「経済的には、ありがたいのやらどうやらでしたが…」とか。
餅まき
お餅がまかれる。当選者がない景品もまかれる。そうするとそれは取り合いになる。鳥居から外へ持って出れば、その人のものとなるが、境内ではまだ勝負はついておらず、はげしい奪い合いになり、けが人がでることもあったとか、以前は、の話。

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    翁三番叟

入場

翁三番叟

翁三番叟

社殿は三十三年ごとに遷宮したという、11回も遷宮したと記録があるそう。私が想像するには、この三角の山は神体山ではなかろうか、遷宮を繰り返す間にその記録が失われ、この山に向かい合って今の社殿は建てられている。本来は逆向きで本殿の背後にこの山があったのかも…

 社務所とよぶのか控えの建物から行列で入ってくる。だいたい11時くらいである。『伊根町誌』によれば、次のようなことである。
 諸役の装束並びに持物
 初め直面、翁烏帽子、襟−白二枚
    著附白練、指貫、翁狩衣、腰帯、翁扇
  後に白式尉面を着ける
千歳 侍烏帽子、襟赤
   著附段厚板、千歳直垂上下、神扇
三番叟
  初め直面、侍烏帽子
    著附−厚板、三番叟直垂上下 扇
  後に剣先烏帽子、黒式尉面、鈴
面箱持
  装束は千歳に同じで他に面箱(翁)
囃 方
   地謡        裃
   笛         〃
   小鼓        〃
   大鼓(大胴)    〃
   後見方       〃

 面箱持は両手にて恭して捧げて先頭に立つ。
 続いて翁−千歳−三番叟−囃方−地謡方の順に舞台に入る。
太夫の後見方は太夫の背後に、地謡方は囃方の後方に着座して始演を待つ。座が定まると笛をまず一笛ふき出して、小鼓が入違いの手を打出し、大夫が「とうとうたらり、たらりたらりあがりららりとう」と謡い出す。つづいて、地「ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう」太夫「所千代までおはしませ」地「我等も千秋さむらはう」太夫「鶴と亀との齢にて」地「幸心に任せたり」大夫「とうとうたらりたらりら」地「ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう」と謡う。
 ここへまた笛の音が入って、小鼓の打つ手が変り、千歳「鳴るは滝の水、鳴るは滝の水日は照るとも」と謡いながら、直垂の左右の袖を取って立ち上がる。地「絶えずとうたりありうとうとうとう」で正面先へ出て、右を受けて「絶えず溜たり常に陥たり」と謡い、鼓方の掛声「イャッハ」と左の袖を離し、同じく「ハッハ」と右の袖を離し、後へ退って両袖を高く巻き上げ「イヤハ」と足拍子を踏む。これより初めの「千歳之舞」となる(舞略)舞い終わると「君の千歳を経ん事も」と謡い出す。「天つ少女の羽衣よ」で左右と二足踏み込んで、右の袖を巻き込んで聞き、「鳴るは滝の水」と袖を戻し、右へ廻り、しなに扇を右へ持ち直し、「日は照るとも」と正面を向く。地「絶えず溜たり、ありうとうとうとう」で正面先へ出て、右足を留めて、足早に下がり、両袖を巻き上げ足拍子を踏んで遥拝する。これより再び千歳の舞となる。略。
 「およそ千年の鶴は万歳楽」と謡う。つづいて「万代の池の亀甲に三極を備えたり、渚の砂、索々として朝の日の色を朗じ、滝の水、冷々として夜の月あざやかに浮かんだり、天下泰平国土安穏今日の御祈祷なり」と謡い、上を見上げて足拍子三つ踏む。これを「天の拍子」といい、下を見て足拍子三ツ踏むのを「地の拍子」という。これより舞進んで足拍子三つ踏むのを「人の拍子」といい、「天地人」の三拍子を舞い上げる。「千秋万歳の悦びの舞なれば一舞まおう万歳楽」と三足出して三足引き、両袖を寄せて拝をし、地「万歳楽」太夫「万歳楽」地「万歳楽」と静かに謡い納める。
つぎに三番叟は黒式尉面と鈴を取り出し、侍烏帽子を脱ぎ、代りに剣先烏帽子を被り、囃につれて「ああ」と掛声をしながら足早やに舞台へ出て、「おおさいさい喜びありや、此の所より外へはやらじとぞ惟う」と謡って大鼓の頭と共に拍子を踏み、以下笛も吹き続けて舞となる。これを「揉之段」といい、舞の終わり方に横飛びする型を烏飛という。揉之段が終わると、三番叟は後見座で黒式尉の面を着け、面箱持と問答があって、次の舞の鈴を受取る。面箱持は外に退き、三番叟は再び囃子につれて「鈴の舞」を舞う。この舞の間は鈴を右手に扇を左手に持ち、そのうち扇を後にして体を屈めて、鈴で土に種を蒔き歩くような型をし、これを「種蒔」という。また扇を片方へ引き除け、面を切って見廻すところを「面返し」といい、鈴と扇とを左右に広げ、まず足先で足拍子踏むのを「揺合せ」という。終わりに後へ退り鈴を載いて舞い納める。


 

 

 


 


囃方と地謡方
囃し方

地謡方

角度が違えばさらに迫力が出そうだが、なにしろこの込み方で、近づけない。遠くから写すより方法がない。
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  ちょっとだけ、宇良神社延年祭のお勉強

『伊根町誌』より(再録)
  河来見の三柱神社(元三宝荒神社)に伝承されている翁三番叟は、その創始年代は明らかでないが、江戸時代初期から始められたと推定され、起源は浦嶋神社にその発祥を見ることができる。河来見の三柱神社
 浦嶋神社には室町時代に神社お抱えの猿楽師達があり、神事には能楽(始め猿楽能)が催されていたが、近世初頭に社領が半減されたことによって、能役者を抱えることが財政上困難となり、能楽師たちは若狭方面に移住してしまった。浦嶋神社の社領は天文九年(一五四○)十月二十三日付、「浦嶋大明神へ御寄進分目録」(社創注進)によると二○石六合四勺があてがわれていたが、慶長六年(一六○一)十月に一○石となり、更に翌慶長七年(一六○二)京極高広の検地により六石三斗一升二合と削減されて
いる。この社領の減少によって、常時能役者を抱えることができなくなった浦嶋神社では、神社の造営や屋根の葺き替えなどの神事の時には臨時に能楽師をよんで上演していた。翁三番叟はその後浦嶋神社の神事のおりに、能楽者に代わって河来見の地域の人々が勤めるようになっている。河来見地区に残されている記録によると、天保二年(一八三一)、三柱神社の造営のときと、昭和四年(一九二九)四月十九日、同神社創建八百八十年祭に、装束や調度品を新調して荘厳な式典を共に上演されている。当時の記録をたどって見ると、京都室町にて能楽の装束や調度品を整え、三本木観世能楽堂をたずねて実地に見学し、研さんに努めていることから、観世能の流れを汲む翁三番叟である。この翁三番叟が催されたのは、年中行事の祭礼とはことなり、かつては干天がつづいたときの雨ごいや、重要な神事の時だけに上演されたものであり、戦後には一度雨ごいのために浦嶋神社で奉納されている。
 翁三番里の由緒について浦嶋神社前宮司宮嶋茂久の書写したものによると、
   「権現山は経が岬の沖合より見通しのよろしきところへ、昔ある年の春ならむ。浦々をめぐりける千石船のありけり。はてしなき海原にかすみかゝれる晨そらに、舟の上にて人々舞楽を催しけるに、ふしぎや一時ばかりのほどに舟、水上に留まりして動かざり。人あやしみて同船の智識に其のいわれをうらないけるに、遥かに権現山にいます熊野大神のこれの興あり。音楽におん耳をそばだてられしより、自ら船は行手にさまよいけむという。みな人即ち驚き畏みて、鼓、太鼓のかずかずを大宮に献上する事を起誓し奉り、具に海上安穏を念ぜしに船忽ちにすゝみ行けりと。是ら郷の人神慮を和らげまつるよすがとして、翁三番叟を神技とし累代伝えたりとぞ」
とある。

 翁三番叟はもと猿楽能から伝わって、今なお能楽に演じられる首曲であるが、一般常納の戯曲的なものと全く異って、天下泰平・国家安穏を祝う祭式的性質をもっている。
 神秘観から俗界を離れた清浄境を現すために、能楽の冠頭に据えて前奏する曲礼である。
 演式は翁・千歳・三番叟の三部からなっている。
 猿楽が神社の所属であった時代にその芸術的信仰から常の演舞に先立って、神塊を迎えて舞台を浄化せしめるよう翁を奏したもので、古来「翁渡し」といっていることを考え合わせると、神の渡御に擬する意義を酌みとることができる。
 翁三番叟はこのように神曲として尊崇されたので、この役にたずさわる者は、あらかじめ数日間別火して不浄を忌み、精進潔斎をする掟がある。河来見の場合も一週間前よりそれぞれの家の表の間に籠り、家の出入りも通常の入口は使わず、表の縁側より出入りをし、寝食も家族と別にした。特に炊事の火の取扱いは厳重にされ、使用に先立っていちいち切り火をして清めてから使用され、また炊事用鍋なども同様に切り火をした。食事も酒、肉を断って心身を清めて当日を待つのが慣わしであった。

延年祭 '08
宇良神社
本庄祭 '12


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