出船祭 '13




  天橋立文殊堂出船祭 '13(宮津市文殊堂)


 天橋立も大変に古い所で、逸文風土記や文殊菩薩・智恩寺や15世紀の九世戸縁起よりも千年は古かろう歴史がある、その途方もなく古く、あまり知られていない物語が、同寺の縁起にも少しは保存されていそうである。
出船祭 '13

出船祭 '13

 出船祭りは、智恩寺に残る伝説「九世戸縁起」を再現したイベントで、松明が灯された海上舞台の上で太鼓に合わせて金銀2頭の龍が舞う。





 

 智恩寺のご本尊・文殊菩薩(重要文化財・鎌倉期)↑
境内の案内板には、「内陣厨子には、本尊、騎獅文殊菩薩坐像、その両側に従う善財貴子・優デン王をまつる。文殊像は、如意を持って獅子の上の蓮華座上に安坐の形、善財童子は経箱を捧げて立ち、優デン王は獅子の首につけた鎖をとる。本尊の光背は、方形の身光、円形の頭光、その周縁の装飾等技巧をこらしたものである。像高は文殊菩薩四九・一センチ、善財童子六〇・六センチ、優デン王六二・一センチ。鎌倉時代後期の作、重文指定。」とある。
「三人寄れば文殊の知恵」の文殊菩薩で、お釈迦様の弟子の中で最も知恵深いといわれる。日本三文殊の一つで、智恩寺は切戸の文殊堂、九世戸の文殊堂、単に九世戸ともよばれている。
門前で売られている名物「智恵の餅」は、文殊菩薩を信仰する門前の老婆が、霊夢によって教えられた餅をつくって幼い子供達に与えていたが、その内の一人がかしこい子供に育ち、これを見込んだ京都大徳寺の大燈国師がつれて帰り、のちに立派な大僧正となったという、文殊菩薩にちなむ縁起のもの。


 
 ここが古来有名な「九世戸の渡し」・「切戸の渡し」。久世の渡し、風土記には久志、救世の渡し、久志の渡し、奇の渡しなどとも称してきた。
智恩寺のすぐ隣り、回旋橋のすぐ隣りである。円いのは「知恵の輪」、そのまんまえの海である。「知恵の輪」と呼ばれているが、本来はこの海峡を渡る舟の安全のための常夜燈であった。手前が陸地で先は天橋立である。
 
 この海峡は内海と外海をつなぐ水道で、このように大型とは言えないが、こうした船が往来する所でもある。現在はこのように狭い水道だが、古くは橋立神社のあたりまでは海で、幅500メートルばかりの海峡であった。

 出船祭 '13
 灯籠を制作中、願い事を書いて流せば文殊菩薩がかなえて下さるとか、一個千円だったか売られている。
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          オープニング

 火の滝太鼓
 出船祭 '13
 宮津節
 

 出船踊り
 出船祭 '13



  万灯会・流し灯籠・菩薩渡御

 「知恵の輪」に文殊堂で採られた火が入り、海上に立てられたかがり火も燃える始める。

 出船祭 '13

 出船祭 '13
 これが「知恵の輪」の本来の使い方のよう…

 金龍・銀龍が大暴れしながら回旋橋を渡る。
九世戸縁起に、伊弉諾尊・伊弉册尊の神様が日本の島々を造られていた時代の話。この神様が地上をご覧になると、あらうみの大神がこの地を占領して大暴れしていて、人も住むことができません。

 出船祭 '13

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  海上絵巻(龍舞・菩薩舞)
 メーン・イベントの龍舞・菩薩舞
性別不明、年齢不明の仏様や坊さんすらけっこう見られる、文殊菩薩はこんな感じだったのかも、京の五条の橋の上の牛若丸のような華麗な舞い。

 出船祭 '13


 出船祭 '13


 出船祭 '13
(背後に何か邪魔な光がある。舞台が暗いときはずいぶん目障りになる、もし隠せるものなら黒い紙ででも覆っておくのがいいのでは…)
(舞台の正面を文殊堂側にするのはいいと思うが、正面側からのライトが強烈すぎる、できれば裏側から強い光を当てて、正面側からは弱い光にする方がやさしい幽玄の世界になるかも…)
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 出船祭 '13


 出船祭 '13


 出船祭 '13


 出船祭 '13

 最後の頃、ドシャ降り。その後に花火も打ち上げられたが、懸命の避難のため、写している余裕はなかった。

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動画

 

 


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    参考

 天橋立の生成については、フツーは逸文風土記の「天に昇る橋が倒れたもの」だけが現在では語られ、それしかなかったかのようにされている。しかし現代人が考えるほどには古くは伝説の貧困な地ではなかった、自分と同じように土地を見ても豊かな想像力もない情けないものではないのであって、「九世戸縁起」などでは文殊菩薩の持つ如意(ヘラのようなもの)が浮かびそこに龍が土を盛ったとしている、だから天橋立は如意島とも呼ばれていた。
久志備の浜、あるいは久志と呼んでいたようで、これらはクシフルのことで、すなわちこのあたりの有力氏族の祖先が当地に天降った降臨神話にかかわった生成伝説もあったと思われる、その変形が逸文伝説かも知れない…

『丹後国風土記』
天椅立
丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間に久志と云へり。此より東の海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。


有力氏族や中央官人や坊さん説話以外には、次のような伝説もある。

『宮津市史』
底なし池        字成相寺・成相寺
成相寺の本堂の下にある蓮池が底なし池とよばれる。この他には大蛇が住んでおり、寺の小僧を次々と呑み込んでいった。かわいそうに思った和尚が、藁で人形を作り、衣を着せて小僧に見せかけ、中には火薬を詰めておいた。大蛇はそうとは知らずに藁人形を呑み込むと、腹の中で火薬がはじけた。苦しみながら坂を降りた大蛇は、ふもとの国分寺のつり鐘を頭にかぶり、なお阿蘇海に入ったが、文殊のあたりでついに力尽き、沈んでしまったという。


『みやづの昔話−北部編−』
成相山の大蛇 中野 松井ぬい
 これな、ほんまにあったことだで。成相山のつくった話だなしに、なあ、あのいく分かな、尾や鰭がついてはおるか知らんけえど、実際にあったことの話だ。 あそこに、あの今はな、あの底なし池言うとったけえど、今は底なし池だない、お茶屋がでけたりしとりますけえな、弁天山の下に。そこにな、成相に小僧さんがおってな、その小僧さん、ここのかまいりがくると、たらいに乗って、あそこの底のない大きな池だって、ほて、蓮の花を切りにいくのに、小僧さんに、あの、お上人が小僧さん乗せて花切りに行くのに、毎年そのたらいに乗った小僧さんを蛇体が飲んだんだ。蛇体いうて、淵におろうが。
 底なし池におるおおぐちなわが毎年飲んでどもならんで、小僧さんがかわいそうだで言うて、ほて、あのわら人形こしらえて、衣きせて、その腹の中に、煙硝玉をな、仕掛けて、花切りに行かせなはった。ほたら、そなこと知らんで、いつものおおぐちなわが出てきて、その小僧さんを頭から飲んだ。飲んだら、あの、お腹の中ではじいてな、ほて、破れたんだな。ほいで、あの熱いもんだでな、じゃあと山から国分寺いうところに、下り坂になるな、国分寺は、このつづきだし。ほて、そこにおりてな、もはや、どこらへんまできたんだろう思うて、ひょいと頭をもちあげてみたらな、国分寺のな、その、吊り鐘の下に頭がはいってな、ほて、ぬこうしても、あの、吊り鐘が深いで、ぬげなんだ。
それから、そのまんま、鐘をかぶったなり、じゃあとおりて、この内海に入って、向うが見えんいうし、ほいで、行ったら、文殊さんの、あの、細うなったところにな、あの、行ったら、ほたら、そのお腹が破れたところからな、水が入って、どないにもいたたまれんようになって、そこで、沈んだというてな。それが、あの、この内海からあっち、大天橋の方へ出るところにな、あの、浅瀬があって、そこにお腹がつかえて、そこに沈んでしもうたんだって、その蛇体が。
 そこは、いまでも浅いだいうて、私ら子どものときにな、文殊さんに旅するのに、その浅いところを通らんで、こっちゃの深いところを通って行ったもんだ。そこに行くと、昔のお爺さんが、ここらじに沈んだだろうで、ここは浅かろうが言うて。ここらへんは、あの、波の静かなときには、
「蛇体の死骸が見えるかもわからんで、あんばいのぞいてみい」言われちゃあ、
「ほんまかしら」思うて、舟ばりに指じゃいついて、
「今年も見えなんだ。蛇体が今年も見えなんだ。来年になったら見えるかしらんだあ」言うて、
「そうかな」言うちゃ、毎年文殊祭りに行くのに見たけど、何年のぞいて見ても、蛇体の死骸どもあらへん。あそこ、あの、沈んだことはな、沈んだ言うて。いろいろの話してもろうたけど。


『おおみやの民話』
内海の水   新宮 井上 保
 なんでも昔、成相山の仁王さんの子供が、底なしの池に落ちたら、池におった大蛇が一口に呑んでしまっただそうな。
 その大蛇は、それから大きなって、大きなって、底なしの池におれんようになって、山の下の内海に入ってしまった。それを見た仁王さんの爺さんの方が、
「婆さんや、あの内海の水を飲みほしてしまって、大蛇を退治しようかい」いうとら、婆さんが、
「それゃ爺さんなるまいで、水がなかったら人間が困る」というただそうな。おかげで今でも内海の水は、いっぱいあるんだ。


簡単にいえば、鼓ヶ岳(成相寺山)にいた大蛇(悪大蛇)が内海に落ちて死に、その死体が天橋立だというものである。地名から見れば、この伝説が民間では長く信じられていたのではなかろうか。
鼓ヶ岳のツツは蛇のことと思われる。上筒之男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神のように、海人族の言葉で、倭の水人系の古い蛇を意味する言葉と思われる。
続いてハミ系の言葉がある。ハミは今のヘビの元になった言葉で渡来系の言語と思われる。ハミ→ハンナミ→ハナナミ→板列と、もともとのこの地の中心地だったと考えられている橋立北部にこうしたヘビ地名が残されている。そのヘビが死んで横たわったものが天橋立であるとする伝説であったと思われる。

ほかには巨大世界樹が倒れたものとか、陽石説話とかもあったと思われる、興味ある方の調査を待ちたい。


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出船祭 '12

天橋山智恩寺(文殊堂)

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