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 城屋の揚松明 '11


城屋の揚松明
  「城屋の揚松明」は、8月14日の夜10時、雨引神社境内で行われます。一体いつから行われていた行事なのかは不明。普通は「400年前から」などといわれているが、そんな最近のものではもちろんありえない。何のために行われてきたのか、それも不明。学者センセなどもお手上げ状態で、誰にもシカとはわからないナゾ。今年は満月が大松明の真上にかかった。


 場所は雨引神社境内広場。駐車場や公共交通機関も申し訳ありませんがございません。自転車やタクシーなどでお越しいただければ、たいへんに助かります。
揃ってのお越しをお待ちいたしております。


 準備作業


 朝6時から準備作業が始まり、大松明が立つのは、昼過ぎになる。
大松明が立っていく様子は、燃え上がる大松明を見るよりも感動ものとか。しかしあまり、といよりほとんど見ている人はない。

これが↓火をつけて投げ上げられる小松明。持ちやすいように、投げやすいように作られている。
城屋の揚松明準備


城屋の揚松明準備


城屋の揚松明準備


城屋の揚松明準備


   



 揚松明を祝う村人


 村人は雨引神社にお詣りをして、盆踊りを踊って、露店をのぞいて、ゴッツオをたらふくいただくよう…

雨引神社


城屋の揚松明


    


 ↑誰が何のビデオを熱心に見ているのでしょう、本年のクイーン舞I・夏奈様のビデオです→。
ご覧になっているのは女王陛下の母上様と伯母上様。


 古来よりの「盆踊り歌」が舞Iにない、最近になって作られたような曲もあるが難しいばかりでたいして人気がないし、今後作られるという話もない。「盆踊り」など知らぬわいの人も多かろうが、ここで踊っているのはもともとは「吉田音頭」と言われているもの、どこの吉田なのか、富士吉田のようにもいわれるがホントがどうかはワタシは知らない、あるいは愛知県豊橋市の吉田かも知れない。仕方もなく、近くのものでは福知山音頭や宮津節が踊られることが多いがこれらも難しく「プロ向け」。


 揚松明点火


 神事のあと、若者たちは白装束に白ハチマキを締め、黒タスキ、提燈を灯して大松明を巡り、高野川の少し上流でミソギをする。いよいよメーンの大松明の点火が近づく。何か人数がいつもより多いような…

城屋の揚松明準備


城屋の揚松明


城屋の揚松明準備


   


城屋の揚松明


城屋の揚松明


 ちょっとだけ、揚松明の歴史民俗のお勉強




 ワタシは小松明を投げ上げる資格はないが、息子にはある、もう少しでその年齢に達する。イミもわからず投げるより、ある程度は知識がある方が張り合いがあるかも…

昭和28年に発表されたという、柳田国男の「柱松考」の先頭部分を読んでみよう…

 松美しき播磨の国、揖保の清流の滸から、この吾輩の一小篇は発足する。姫路出身の和田千吉君屡々人に語られし話に、旧揖東郡網干の近在に於て、たしか盆の頃の行事にヒアゲと云ふ風俗がある。同じ話を聞かれた山中共古翁の手録に依れば、播州揖保郡大谷村(勝原村大字)と云ふがその火揚げを行ふ村である。檜の丸太数本を高く立て、其上端に口径一間ばかりの漏斗状の物を取附け、其中に藁屑を入れ置き、村の者多勢、手に手に小石を結び附けたる繩に火を点じたるを持ち、之を廻はしながら下より投げ上げ、右の漏斗状の中なる藁に火燃え附くを見て其丸太を倒す。入費多く掛るが故に近年は之を行はずとある(共古日録十六)。吾輩の記憶を以てすれば、和田君は縄とは言はず藁松明と言はれた。柱の高さは三丈程、又必ず神前の火を以て松明に点ずると話されたかと思ふ。さて此風俗の名称であるが、播州でも元は柱松と呼んで居たやうである。其証拠は西讃府志巻五十三、今の播州揖保郡旭陽村大字津市場の稲荷社、七月十六日火祭神事の記事である。(此書は標題の示す如く元来讃州丸亀領の地誌であるが、其末の方に京極侯の飛地領分たる播磨近江等の事も書いてある。)之に依れば右七月十六日の火祭は、網干の北で揖保川の東岸、前の大谷村よりは一里程南、津市場の稲荷河原と云ふ處で之を行ふ(其地は多分稲荷社の御旅所であらう)。高さ六間に周四尺五寸の柱を立て、其上端に取附ける火祭籠(ほまつりかご)は、百二十本の青竹と八貫目の繩とを以て之を造り、其中へ六十束の麦藁を入れて置く。投松明は麻稈と竹とを以て作った一尺ばかりの物で、之を投げ揚げて火祭籠の藁を燃やす作法は、前掲和田君の談と同じく、只之に携はる若者共皆裸形とある。此神事は其名を火上(ほあげ)とも保天武(ほてむ)とも又柱松とも謂った。保天武の名称に就ては後の機曾に於て述べるであらう。今は先づ柱松と云ふ事の如何に弘く且つ久しく行はれて居たかを説かねばならぬ。西讃府志は今より百餘年前に出来た新風土記である。
 近世に於て盆の頃に柱松を盛に立てたのは山口県地方である。周防風土記に依れば、今の熊毛郡三丘村大字安田の條に、「七月七日夜より二十日過迄、河原其他にても、諸精霊追善の爲と申し、柱松と申す物を相調へ候、十五歳以下十歳位の子供、長さ三間乃至五間位の木の頭へ、竹にて上戸の如く上を広く編みたるを附け、其中へ藁などを入れ、其中へ小竹を立て、中柱に紙の総をこしらへ、其末に五色紙の旗と幣とを結びそれを直に立て、それに五色紙の細き切下げを附けたる繩を三方へ倒れざるやうに控へ縄に引き、薄暮より多く集まり、一尺四五寸位の松明へ縄を附けたるを下より投げ上げ、件の漏斗口の中へ打込み焼くなり、之を柱松と謂ひ、当村に限らず隣村にても行ふ」とある。同じ郡岩田村などにも之と同じ風習があって、所謂火祭籠の中央に立てる旗をぱ楚天幣と謂ひ、其旗には楚天聖霊御休息所などと書くと云ふ。長門にも之と同じ行事の多かったことは、長門風土記を見ればすぐに発見し得る。其僅か二三の例を拳げるならば、同国大津郡三隅村に於ては、「七月七日より十四日まで、柱松とて少年の者相集まり、大竹へ藁にて酸漿の形を拵へ、下より苧稈松明へ火をつけて投げ入れ、ホゝヅキを焼捨て戯れと仕候」。同郡深川村では此行事をホゝヅキとも謂つた。此戯れ無き年は、水中より片目と謂ふ者出でて牛多く死すと言傳へ、人家若し麦藁を惜んで与へざる時は、其家の牛必ず死ぬと云ふことで、大概其望に任せると云ひ、又同じ村大字真木などでは柱松を一に牛燈とも称し、牛の病難を除く祭なりと信じて居た。同書阿武郡三見村の如きも、「盆中牛馬安全の御祈祷とて、柱松と唱へ竹を上戸の如くしつらへ、其中にすくづ松明等を入れ置き」、之と同じ火祭をしたとある。
 さて此類の火祭が諸国に例多きるのであることは、郷土研究の読者も既に御承知の事であらうと思ふ。但し其時期及び目的等に於て若干の異同があり、殊には其名称の区々である爲に、是迄人の注意を逸して居た場合が少なくは無かった。吾輩は先づ最初に柱松と云ふ語が最も普通のものであったことを明らかにして置きたい。長門本の平家物語巻三、成親流罪の條に、柱松因縁事と題する一齣があって、播州柱松の駅の地名由来に就き、天竺震旦本朝に亙って長々と弁じて居る。固より大虚誕であるから受売をするのも大儀であるが、暫らく其大要を録すれば、昔天竺に唯圓上人と云ふ人入滅の後、弟子僧の唯智なる者之を思慕し、明くる年の七月十五日に、神応草(芭蕉)の枝に不死教草と云ふ草の枯葉を取掛けて火を附け、「此光に現在に去り絵ひし影を現じたまへ、現身唱光明と唱へたまへぱ、故上人古の形を些しも違へず」現ぜられた。是を聞いて名残惜しき父母親類におくれた人々、七月半の盂蘭盆の夕に、葬地に往いて火をとぼし、之を光明揚と謂つた。我邦では崇神天皇の御宇、花萩大納言の子に少将と云ふ人、七月中の五日亡父の墓所に詣り、墓前に枯れたる木の一本あったのに草の枯葉を結び掛けて火をとぼし、玉姿しのばゝ我に見せたまへ云々の歌を詠んだ。之を柱松と名づけたのは漢国の六宮明寿と云ふ君、命還山頂の松の名木を移して丸柱に磨き成した故事に因るとあって、此点は殊に陳紛漢である。いつの世の盲法師の作略かは知らぬが、さてる根気の好い拵へ事である。吾輩は毫も盲人の言を證左とする意は無いが、七月長竿の頭に火を点して立てること、即ち近世に所謂盆の高燈籠と相似たる風習が、柱松と云ふ名を以て琵琶流行の足利時代にも既に行はれて居たことは、間接に是から推測し得らるゝと思ふのである。柱松と云ふ地名は獨り津の国の官道の上に存するばかりでは無かった。例へば、
  和泉泉北郡山瀧村大字内畑字宗峯小字柱松
  同 泉南郡山直上村大字積川小字柱松
  伊勢度曾郡七保村大字野原字東柱松
  下総香取郡多古町大字喜多字柱松
  下野上都賀郡日光町大字日光字御柱松
  丹後加佐郡西大浦村大字赤野字柱松
  但馬美方郡温泉村大字春来字柱松
  備中上房郡有漢村字中山ノ端小字ハシラ松
  出雲能義郡比田村大字梶福留字梶小字柱松
  同 飯石郡一宮村大字高窪字西畑小字柱松
  同 八束郡川津村大字西川津字大内谷小字柱松
  同 同  大野村大字魚ノ瀬字魚ノ瀬小字柱松
  同 同  持田村大字東持田字納蔵小字焼柱
  土佐幡多郡伊豆田村大字立石字焼柱
  同 同  橋上村大字野地字松柱
  筑前鞍手郡笠松村大字芹田字柱松
等の如く、東西の諸州にわたって此地名があるのは、此風習が少なくも或時代には全国一般のものであったことを示す上に、更に進んで考へると、柱松を執行ふべき地点が一定して居たことも推測し得られるかと思ふ。若し然らずとすれば、地名と成って後世に遣る筈も無いからである。
まだまだ論文は続くが、それは本を買うなり借りるなりして読んでいただくとして、舞鶴市赤野に今も柱松の小字があるが、この行事は何も城屋だけの専売品ではなかった、地名すら残さなかった地も多かろうから、たぶんあちこちの村々でひろく行われていたものと思われる。民俗学的手法は比較、あちらこちらにバラバラに残された歴史の破片を拾い集めて比較し、元の姿を復元していく。400年前などといったものではないなと、だいだいは想像できるのではなかろうか。



城屋の揚松明など:丹後の伝説12
城屋の揚松明:アルバム1

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